第2章
第5話
柳瀬について
もう3か月近くは外に出てないんじゃないだろうか。ネットで買いそろえたレトルト食品や安い缶チューハイ、とにかくお酒の空き缶で部屋はごった返していた。見た目を気にすることがないため不揃いな髪にだらしない服装、出不精にもほどがある見た目だ。
私がこうなってしまったのは会社での出来事が原因だった。
*
「今月もこの会社で一番売り上げを伸ばしてくれたのは
みんなの歓声とともに、毎月恒例の売り上げ一位の人に贈られる図書カード千円分を受け取る。使い道なんてなさ過ぎてずっとたまっているが、なんだか誇らしくて売ったり捨てたりせずにすべてちゃんと管理していた。
「柳瀬先輩!今月も一位でしたね!」
後輩の女の子にこっそり声をかけられた。一番私を慕ってくれている後輩で、私もその子に目をかけていた。
「ありがとう。でも君のおかげでもあるよ、来月もよろしくね。」
「……!はい!!」
彼女は目を輝かせて返事をした。とても素直でいい子、そういう印象だった。彼女の手が空いた時はいつも真っ先に私に仕事の手伝いはないか聞きに来てくれたし、仕事が煮詰まったタイミングや休憩しようとしたタイミングで図ったように彼女からお菓子や飲み物の差し入れをもらった。
うまく立ち回っていたほうだと思う。後輩からも、上司からの信頼も厚くうまくいっていたはずなのに。
「柳瀬さん、人事の人が呼んでます。すぐ第六会議室へ向かってください。」
「承知いたしました。すぐ向かいます。」
人づてに呼ばれる会議室、関わりのない人事課からの呼び出し。
なんだろう?人事……?
私には思い当たる節が全くと言っていいほどなかった。ただ、ぬぐい切れない恐怖にさいなまれながら会議室に足を運んだ。
「失礼します。」
第六会議室、そこに待っていたのは人事課長と私を一番慕ってくれていた後輩だった。
人事課長に促され席に着き、話が始まった。
「今回柳瀬さんをお呼びしたのはパワハラの件についてです。」
「パワハラ?」
すると突然後輩が泣き出した。
「……ッ…私…………ッ……ずっと柳瀬先輩からパワハラを受けてて……ッ。」
え?私がこの子に?
「柳瀬さん。すでにいくつか証拠を頂いておりまして、今回は事実確認ということでお呼びさせていただきました。」
「え、あの……私彼女にパワハラなんてしてません。」
無実を訴える。しかし聞き入れてくれる余地はなかった。後輩もさらに嗚咽を漏らしながら訴えた。
「うそです!……だっていつも私に……ッお茶やお菓子を買ってこいって……ッそれに……ッ。」
「ちょっと待ってください。そんな事実一切ありません。さっき証拠があるって言ってましたよね?どういった証拠なんですか?」
「こちらです。」
そういって人事課長は自身のノートパソコンで音声データを再生した。
『ちょっと!ここちゃんとできてないじゃない!今日までに必要な資料って昨日言ったよね?これどうするの?もう会議始まるよ?』
『ねえ!お茶まだ?いつもこの時間にもってきてって言ってるよね?なんで毎日言わせるの?』
『何回も言わせないでよ!自分の仕事が終わったらすぐ!回せる仕事ないか私に確認しに来いって言ってるでしょ?なんでそんなこともできないかな?馬鹿なの?』
「………………。」
絶句した。どれもこれも言った覚えのないものだった。でもすべて私の声だった。こんなことがあり得るのか。でも今はそんなことよりも、この場をどうやって切り抜けるかだ。
「この発言、身に覚えはありますか?」
「ありません。すべて私の発言ではございません。」
「……!うそだ!全部柳瀬先輩が私にかけた暴言じゃないですか!ひどい」
そういってさらに泣き出してしまった。人事課長もさすがに手に負えなくなったのか、後輩を退席させた。
「わたくし共も柳瀬さんのご活躍の噂はかねがね聞き及んでおります。そのため柳瀬さんを信じたい気持ちもあるのですが、こういった証拠が出てしまうとやはりこちらもどうすることもできず……。大変申し訳ありません。今手持ちの仕事は別の方に今日中に引き継いでいただいて、明日より一ヶ月間謹慎処分ということでお話をまとめさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「……承知いたしました。」
言い訳の余地なく謹慎処分が確定した。
何が事実確認だ。処分はとっくに決まっていたんじゃないか。くそ。もう少しで出世できそうだったのに……こんなところで足元をすくわれるなんて。悔しい。
第六会議室を出て自分の部署に戻る間、すれ違う人々にこそこそ噂されている気がしてならなかった。疑心暗鬼になってしまっていたのだ。あんなひどいことを……私はしていないのに。そう思った瞬間吐き気がこみあげてきて近くのトイレに駆け込んだ。
吐き戻していると、そこに人が入ってきた。足音からして二人ほどだろうか。
「ねー、あれ、まじでやったの?噂になってたよー。」
「やったよ!当たり前じゃん!ほんと、あの音声流した時のあいつの顔傑作だったわー!作ってくれてほんとにありがと!」
この声は……後輩…?
「いやーそれにしてもあの音声すごいね?音声合成AIであんなに人間っぽく声作れるなんて、泣きまねしながら感嘆の声上げそうになっちゃったよ!」
「でもほんとによかったの?あんなに柳瀬先輩のこと慕ってたのに。」
「いいのいいの!だってあの人私が持ってないもの全部持ってんだもん!ちょっとくらい意地悪したって罰は当たらないよ!それに慕ってたのは自分の地位確立のためだし!まあ出世はしたいとは思ってないけど、棚牡丹でいいことあるかもしれないじゃん?」
「まじ?!やばすぎ!超ウケるんですけど!」
……え?
頭が真っ白になった。音声合成AI?地位確立のため?私はそんな怠惰な奴のために人生を棒に振らなきゃいけないかもしれないってこと?
さらに深まる吐き気に我慢できなくなり、胃がひっくり返るほど吐き戻した後、やっと立ち上がることができ、部署に戻った。
周りから送られる軽蔑の視線、野次馬的視線、すべてが怖くなり引き継ぎもそこそこに荷物をまとめて早退した。周りの視線が本当に怖かった。私の今まで築き上げてきた信頼が、あんなことで崩れ落ちることを知ってしまった。今まで私はうまくやってきたほうだと思っていた。なるべく裏表なく人と接しようと、なるべくたくさんの人と仲良くなろうと頑張ってきたのに、すべてが崩れ去ってしまった。味方と呼べる人は一人もおらず、とうとう独りぼっちになってしまった。
怖かった。誰も信用できなくなってしまった。相談できる人もいない。もうどうしようもない。私は謹慎処分中、会社を退職した。
精神科の先生には、うつ病だと診断された。
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