第4話
「海にいこう!」
会社を飛んで二、三日たった時、柳瀬が思い立ったように言った。季節はすっかり移り変わり、夏……と言いたいところだが、今は夏も終りかけの9月だった。いまの時代、9月でも十分暑いが海というのは少し気が引ける。
「海にいこう!」
私から返事が返ってこないから聞こえていないと思ったのか、今度は倍の声量で誘ってきた。
「聞こえてるよ、びっくりしちゃって返事できなかった。海?」
「そう、海!この前教えてあげた服のブランドが水着セールで出してるの!ね!いこ?」
「うーん。」
海に少し迷いがあるのには理由がある。自傷行為の傷跡だ。柳瀬に出会ってから柳瀬が私を大切に大切にしてくれるからすっかりしなくなってしまったが、右腕以外にも傷跡が残っているため水着はあまり気乗りしなかった。
「ほら見て?これとかかわいくない?」
曖昧な返事しかしない私とは打って変わって、元気に楽しそうにスマホ画面を私に見せてくる。確かにかわいい。大学時代の私なら迷わず買っていたデザインの水着や、今の私でも傷跡がなければ買っていたであろうデザインのものまでそろっていた。
「私これほしいな~。絢香、これ私に似合うかな?」
スタイルのいい柳瀬にはどんな水着でも当たり前のように似合うだろう。そう適当にあしらって傷跡のことについて後悔を募らせていた。
「……。」
そんな私に嫌気がさしたのか、ぐっと私の顔をつかまれ、柳瀬と強制的に目が合った。
「絢香?嫌がってもつれていくからね?」
「え。」
「当たり前じゃん、それに早くいかないと寒くなっちゃうから今週の金曜日行こうね?わかった?」
「今週の金曜日って……明後日じゃん!」
あまりの急さにプラスして、あまりに急な予定、相変わらず柳瀬らしい。でもこういった行動に私は何度も救われてきたから、体よく付き合ってしまう。
「もう。わかったよ。明日家帰るんだよね?じゃあ明後日はどこ集合にする?」
「やった!13時に駅前で!」
「え、午前中からいかないの?」
「せっかくだし夕日見たくて!」
振り回されるのも悪くないと思いつつ了承し、その日は早めに眠りについた。
*
海にいく当日、駅前で柳瀬と合流した。
「絢香!おめかししにいこっか!」
そういって連れてこられたのは柳瀬おすすめのブランドのお店だった。たくさん並んだ服の中から柳瀬が二着ささっと手に取り、会計を済ませた。
「え?もっと見なくていいの?てか水着は?」
「いいのいいの!今からこれ着てくんだから!試着室使う許可もとってきたから絢香も試着室いくよ!」
「え! え?」
混乱のまま試着室に連れてこられ、柳瀬に買ったばかりの服を着せられる。
「柳瀬……私一人で着れるから……恥ずかしいから向こう向いてて!」
「え~、わかった。」
何なんだ…と思いながら変わった形状の服に袖を通し終えた。
「柳瀬……着替えたよ。」
「どれどれ。」
おじさんみたいな顔つきで私のほうを振り返った柳瀬は、私を見て一瞬硬直したのちパッと笑顔になった。
「えー!超似あってるよ絢香!いいね!」
「え……本当に?」
「ほんとほんと!次は私が着替えるね!こっち見ててもいいよ。」
「やだよ!向こう向いてるから着替え終わったら教えて。」
そういって目をそらしてしばらくしたら着替え完了の声が聞こえた。
「ね!どう?似合うかな?」
体をねじりながら柳瀬の服をいろんな角度から見せてくれる。
「似合ってるよ。……デザイン私のと似てる?」
「そう!これ双子コーデなの!かわいいでしょ?」
「うん、かわいい。でもなんかちょっと喪服みたいだね。」
「……そうかな?」
絶妙な空気が流れた後ちょけた声色で柳瀬が言った。
「真っ黒ってだけじゃん!文句言わない!今日はこれで海に向かうよ!さ!荷物まとめてまとめて!」
そういってそそくさと試着室から出ようとすると、出た先で店員さんたちにお似合いですよとお褒めの言葉を頂いた。照れくさくて、でも嬉しくてちょっとだけ会釈して店を出た。
「海って言ってもどこの海行くの?電車は何時?」
予定立てるのは全部私に任せて!と豪語していたので柳瀬に全部任せていたが、どうやら間違いだったらしい。
「やば!電車あとちょっとで出ちゃう!急いで!」
「うそでしょ!?ちょっと柳瀬しっかりしてよ!」
「ごめんごめん!走れば間に合うよ!走れー!」
「もー!」
買ったばかりの新しい洋服に身を包みながら全速力で走る体力のない二人。なんとかギリギリ電車に間に合いそうだった。
「セーフ!いやー、危なかったねー。」
「ほんとだよ!でも久しぶりに走ったからちょっと楽しかったかも。」
「ほんと?この後海でいっぱい走ろうね、絢香。」
「そうだね、それもいいかも。」
そんなことを言いながら空いている席を探してしばらく電車内をさまよった。
「あ、この車両誰もいない。絢香、ここの窓側どうぞ?」
「……ありがとう。」
なんだか柳瀬からいつもと違う空気が流れているような気がした。ただその次の瞬間、いつもの柳瀬に戻っていたため気に留めなかった。
「ここから海までどれくらい電車乗るの?」
「えっとねー、終点までで、1時間ちょいってとこかな。乗り継ぎはないから安心しておやつ食べられるよ!」
そういって膝の上にお菓子をたくさん広げる柳瀬を見ておかしくて笑ってしまった。
「すごい、なんだか遠足みたいだね。」
「そうだね。何でも食べていいよ?これとか絢香好きだったでしょ?」
なんて他愛のない会話をしながらお菓子を食べる途中、柳瀬からチョコを一つもらった。
「これは?」
「これねー、実は昨日私が作ったんだ!すごいでしょ?ね、食べてみてよ。」
「え!すごい、お店で売ってるのと見た目大差ないよ!いただきまーす。」
柳瀬からの視線を感じ、少し照れくさくて一口で食べてみた。なんだか苦い気もした。私は甘いほうが好きで苦味には敏感だ。
「おいしい!でもちょっと私には苦いかも……。」
「あらら、そっかー、でもちょっとでもおいしくできててよかった〜。ちゃんと食べた?」
「うん!ごちそうさまでした!」
「どういたしまして!私も食べよっと。」
電車の中でこんなにしっかりお菓子を食べることなんて今まで一度もなかったからすごく不思議な気持ちで、走ったから疲れちゃってて、電車の揺れも心地よくて、なんだか少し眠くなってきた気がした。
「絢香?もう眠い?」
もう?
「んーちょっとだけ?」
言葉尻に少し不思議な感情が乗っている気がした。
「そっか。ねえ絢香、口にチョコついてるよ?」
「やだ、恥ずかしい。どこ?」
「ここ、取ってあげる。」
「ありがとう、柳瀬。」
柳瀬が私の口元をさっと拭ってくれる。その時の柳瀬の顔が、今まで見た中で一番きれいな顔をしていて、見とれてしまった。
こんなに優しい顔、できたんだ……。
今まで、特段優しくない顔をしていたわけではないが、柳瀬はいつもどこか達観していたため少しうれしかった。私は柳瀬の特別でいられたんだ、と。この時改めて実感した。
「どういたしまして。私も眠くなってきちゃった。」
「終点まででしょ?車掌さんがきっと起こしてくれるよ。ちょっと寝ようか。」
「そうだね、海でいっぱい楽しまなきゃいけないしね。」
「うん。」
「……。」
急な眠気に襲われる。何か話そうとしているのに、言葉が口からうまく出てきてくれない。
「……。」
でも、すごく心地がいい。この沈黙のおかげで、今、電車内が私にはとても心が落ち着く空間となっていた。
「……。」
「ねえ絢香」
ん?どうしたの?
柳瀬が話しかけてくれる。でも眠気で声を出せない。
「もう寝ちゃった?」
まだ起きてるよ。
柳瀬の声は落ち着く。ずっと聞いていたい。
「絢香、ごめんね。」
なにが?柳瀬は何もしてないよ。
心なしか、柳瀬が少し弱気に思えた。目がうまく開けられない。
「私……。一人が怖くて。絢香ならきっと許してくれるって思っちゃった。」
柳瀬も一人は怖かったんだ。そんな柳瀬だから私を変えられたのかも。許すって何を?
思考が手元から離れていく。
「ほんとに……ごめんね。」
謝らないで、大丈夫だよ、柳瀬。
「私もね、絢香みたいに仕事で疲れちゃってて。」
そうなの?知らなかった。柳瀬のこと何も教えてくれないんだもん。
「それでね、生きるのもしんどくなっちゃって。」
柳瀬もしんどかったのに、私にあんなに優しくしてくれてたの?
「でも、本当に一人が怖くて。」
私は柳瀬のおかげで一人じゃなくなったよ。柳瀬もそうじゃなかったの?
「だから、絢香を見つけたときは絶対に離しちゃいけないって思った。」
私のこととっても大切にしてくれてたもんね。嬉しい。
「絢香を手放せば一人で……。」
大丈夫、柳瀬は一人じゃないよ。
「絢香、まだ起きてる?」
起きてるよ。でも、あとちょっとで寝ちゃいそう。
ひとりにしちゃってごめん。私、もうダメみたい。
先に寝るね。
おやすみ、柳瀬。
柳瀬の声が聞こえなくなっちゃったな……。でもなんだかとってもいい気持ちな気がする。
これでもかというくらいに夕日に照らされて、暖かくて、すごく心地がいい。
柳瀬、よかったね。見たいって言ってた夕日だよ。私は今もう何も見えないけれど、体の温かさでわかる。きっと目を覚ましたらいつもの笑顔で柳瀬が私に話しかけてくれるんだろうな。幸せだな。柳瀬に出会ってから私はいつも信じられないくらい幸せだよ。
早く海で楽しそうにしてる柳瀬を見たいな。
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