第二十三話 家族の定義

晩餐は和やかに終わった。思えば、公爵夫妻と兄とアイリスと、揃って邸宅で食事をするのは初めてのことだった。

別邸に戻る途中で、後ろから足音が近づいてきた。


「――公女」

「陛下」


王女を客間に送って行った兄だった。急いできたのか、僅かに髪が乱れている。


「少し、いいだろうか」

「勿論でございます」


アイリスは否という答えを持たない。ただ頭を下げた。

別邸でも、中庭を挟んで向かいの兄の棟に足を踏み入れるのは初めてのことだ。同じ造りのようで、飾られている品だけが違った。廊下を抜けて、兄の部屋に招かれたアイリスは、思わず足を止めた。


「――どうかしたか?」

「いえ......僭越ながら、わたくしの部屋と似ているなと思いまして」


広さも同じ程であろうか。広々とした部屋には、暖炉、天蓋付きベッド、机、本棚、一人掛けのソファのみ。装飾品は一切なく、シャンデリアとカーペットだけが目に鮮やかだった。王太子はそうだな、と呟く。


「王宮に居を移すと決まった時、屋敷から持っていきたい物がないことに気づいた。剣や学友と共に買った物の他は、すべて替えがきくものだった」


理解できる。この屋敷にも、王都邸にも、あるのは公爵子息の為のもの。アイリスや兄の物は、ひとつとしてない。

兄はアイリスにソファを指差し、己は机に座った。前触れもなく、話し始める。


「道中、王女と話をした。結婚式に向けての話が多かった。王女は――どんな家族を望むかと私に聞いた。私は咄嗟に答えられず、王女の望むままに、と言った」


端麗な顔には、何の表情も浮かんでいない。浮かばないのだろうと思う。

アイリスも、そうだから。


「――私にとって、家族というものは理解の範疇の外にある。友愛は寄宿学校で知ったが、果たしてこれは異性間にも適用できるのか、分かっていない。私は......」


兄は言葉を探すように視線を彷徨わせた。


「私は、家族というものが、恐ろしいのだと思う」

「――理解、出来ます」


家族というものが血の繋がった父母を指すのなら、アイリスにとっての家族は、己を殺そうとする人と、それを黙って眺めている人だ。温かさとは程遠く、憎く思うことすら出来ず、ただ諦めて受け入れた。

そんなものは、ひとつでいい。それが家族だというのなら、これ以上は要らない――アイリスも、そう思う。


「けれど、そなたは婚約者を愛しているのだろう?」


アイリスは目を見開く。公的行事でしか会わない兄に、気づかれるほどであっただろうか。

兄は軽く笑う。


「――他の者ならば気づかぬだろうよ。けれど、かつての私と同じ目をしていたそなたが、婚約者には違う眼差しを向ける。なればそれは愛なのだろう。そう、理解できる」

「......はい。わたくしは、婚約者を愛しております」

「未来の夫を愛するそなたでも、家族を恐ろしく思うのか」

「......わたくしには、よく分かりません」


兄は首を傾げる。


「家族とは、なんなのでしょう。父母ちちははと、子のことでありましょうか。王女殿下は、祖父母のことも楽しそうにお話になる。では祖父母も含まれるのでしょうか。しかしわたくしたちの祖父母は既にこの世におられない。或いは、子に恵まれてぬ夫婦は。彼らは、家族でないのでしょうか――わたくしには、分からない。どれが、家族と称されるものなのでしょうか」

「......そう、だな。果たして家族とは、何を指すのであろう」


王と未来の筆頭公爵が揃って悩む問題が家族とは、他の貴族が聞いたら失笑するであろう。


「王女殿下は、どのような家族をお望みなのですか?」

「......互いに支え、笑い合いたいと言っていた。作っていくもの、とも言われたが。作り方さえも分からない。何をすれば、どう演じれば、家族になれるのだろうか」


アイリスには、分からない。どうしたって、わかりようがない。


「わたくしには、家族になる術は分かりません。けれど、陛下がわたくしに尋ねてくださったのは、陛下のお気持ちをわたくしが理解しうると思っていただけたからだと考えております」

「......相違ない」

「互いを理解し、互いを考える。支えるの定義とは異なりますが、これを家族と呼んでも差し支えないのではないでしょうか」


兄は目を見開いた。


「......そなたと私が、か」

「はい」

「私は、一度としてそなたを助けなかったのだぞ」

「存じております」


忌まわしい誕生日。兄は型通りのプレゼントを贈ってくれたが、当日に顔を合わせたことはない。同じ屋敷にいた時でさえ。

けれどそれは、兄ばかりではない。


「――わたくしも、陛下をお助けしませんでした」


兄の誕生日は2月。年末同様、豪雪に見舞われる時期なので、パーティーは開かれない。他家から届いた贈り物の山に贈り物を紛れ込ませるだけ、あとは他の日と同様に過ごした。祝いの言葉を伝えた記憶もない。

そういうものだと思っていたし、兄は12歳で寄宿学校に入り、夫人の魔の手から逃れると知っていたから。


「そなたは私より幼い」

「年が上というのは、人を助けない理由になりましょうか」

「っ、だが」

「わたくしの誕生日に贈り物をくださったのは、陛下が初めてでした」


両親から贈り物をもらったことは、ただの一度もない。


「勿論、形式的なものではありましたが――わたくしは、その時初めて、誕生日は祝われるものだと知ったのです」


アイリスは覚えていないが、律儀に1ー3歳の時にも贈ってくれていたらしい。4歳になって、誕生日には宴を開き、ケーキを食べ、贈り物をもらうのだと知り――それを拒絶された時、たったひとつだけ届いた箱があったことを、アイリスは今も覚えている。

あの時は、絶望に拍車をかけたが。祝われるべき日に、母に殺されかけたのかと。


「あの箱がなければ、わたくしは今も、生まれた日を呪っていたでしょう」


5歳になってようやく存在が明らかにされ、大量の贈り物が届くようになったが、祝われるということを知らないままであれば、アイリスはもっと絶望していただろう。あの贈り物があったから、夫人の行動を「そういうもの」として受け入れられたような気がする。


「......そう、か」

「はい」

「――本音を言えば、私はそなたがいて安心したのだ」


兄は小さく呟いた。


「公爵と夫人が、同じことをそなたにしたから。私だけではないということが、あの時の私を安堵させた。そして――あわよくば、そなたに対象が移ればいいとさえ思った」


卑劣だろう、と兄は自嘲する。


「12で逃れる私と違い、そなたは長くこの家に留まると知っていたのに」

「逆であれば、わたくしもそう考えたでしょう」

「たとえそうであっても、そのようなことを考えた私が、そなたの家族を名乗る資格があろうか」

「では、どうすれば家族と名乗る資格を得られるのですか?」

「......分からぬ」

「正直に申し上げますと、わたくしも、陛下を家族と形容するのは違和感がございます。しかし、陛下に名を呼ばれた時、不快には思いませんでした。それで十分ではないでしょうか」

「......私も、そなたにお兄様と呼ばれた時、不快には思わなかった」


相変わらず、分からないけれど。


お兄様・・・の関係を家族と定義するならば、恐ろしくはないと考えます」

「――も、そのように思う」


アイリスと兄は顔を見合わせた。


「......では、そのように定義いたしましょうか」

「あぁ」


奇妙な沈黙が漂う。御用がこれだけでしたら、とアイリスは立ち上がり一礼する。扉に向かう背に、声がかけられた。


「――アイリス。ありがとう」


アイリスは振り返り微笑む。


「私の台詞です。お兄様」





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