第六話 博士の独り言

「そこはさ。私には身の回りのことをしてくれるスイミがいてくれているわけだから」


 どこか誇らしげに、微笑んでみせるメグリ。それは一種の照れ笑いのようなものかもしれなかった。メグリ自身このようにスイミのことを褒めるようなことは、彼女と面と向かってではとてもできるものではないと思っているので、こういう風なスイミ抜きの第三者との会話の中でしか、普段からのスイミがいかに上手く動いてくれているのかということについて、褒め倒したい欲求を発散する場がないのである。


「そうでした、そうでした。……あ、そういえばさっき、スイミさんと廊下で挨拶をしましたよ。彼女、頸部のパーツがひどくやられていましたけど、何かあったんですか?」


 本棚の背表紙へと視線を走らせるのに集中しているリヒトには、メグリがこの時に見せた表情を、窺うことなどできるはずもなかった。そして、そうして彼が背中を向けていてくれたことに、メグリは心底ほっとした。


 平生の内から表情筋を意識して使うことのめったにないメグリだけれど、それは逆に言えば無意識のうちに出てしまう表情の機微が、極端に読み取られやすいということでもあるのだ。


 今朝だってそうだった。いつものように研究室の鍵を開けて、中に入ると、見慣れた人物が見慣れない高さをぶら下がっているのである。初めのうちは何が何だが、目の前の情景を認識していくことすらゆっくりとしかできないほどだった。


 ようするに、現実に起こっている事象を正確に理解するのよりも先に、口ばかりが変に饒舌になって、「おやすみ?それともおはようなのかな?」なんて不謹慎なジョークの一つや二つも言えたのである。


 唐突にメグリの元に降りかかった非日常は、未だに尾を引いていて、今朝あった出来事が夢で見たことだったのか、それとも現実に起こったことだったのか、それすら判然としないような、不安定で不可思議で、どこか高揚感に満ちた気分に彼女をさせていた。


「博士?どうされたんです?急にぼーっとしちゃって」


 怪訝な目をして自分のことを見つめる現実のリヒトにようやっと焦点がいって、メグリは今朝の回想から自分自身を引き揚げることができた。


「ああ、いや、なんでもないよ。ちょっと、考え事をしていただけ」


「そうですか。いやぁ、長いことお邪魔しちゃいました。スズミ博士の本、是非とも参考にさせていただきます」


 そう言って、急に慌てた風になったリヒトは、小脇に書籍を抱えたまま、いそいそと部屋を出て行った。


 おそらくは、メグリの言った考え事というワードを何か重大な研究に関する発想を得たものと勘違いしたに違いない。


 そして、それはあながち間違いでもなかった。研究についてのことではないものの、メグリは今朝の不可解な出来事について、一つ、思いついたことがあったのだ。


「スイミはいつ帰ってくるんだっけ……」


 椅子の背もたれをぎしりと軋ませながら、メグリは独り、そう呟いた。

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