さけるチーズ、サキ

the memory2045

サキ

夜。

淡い月の光。

まるでヴァージン·オリーブオイルのようにネオンの滲みへと溶けていく。


そんな街角。ピエールは5年物のブルー·チーズのひとかけらの上に、どん、と鎮座していた。


彼は、細く裂けた繊維の一本一本がCosmosのようにも見える、不思議な形の酒にぴったりの、さけるチーズだった。名前はピエール・サキ。ちょっと変わった名前だけど、この世界ではよくあることだったんだ。


この街は、古い映画のセットみたいに、どこか懐かしくて、どこかフューチャーな香りがした。錆びついたロボットがポプラ並木のふりをして数人立っていたり、空飛ぶ自動車がゆっくりとNetflixを映しながら進んでいたり。ピエールはそんな街の、薄汚れた窓辺に置かれたオシャンティな皿の上にいた。


隣には、彼の親友、いや、ライバルとでも言うべきか、まるまるとしたモッツァレラチーズがいた。彼の名前はマルセル。いつも完璧な100%の球体で、ピエールのことを


「君はバラバラになりたがっているように見える」


とからかうのが好きだった。


「マルセル、僕たちはいつまでここで待っているんだろう?」


ピエールはつぶやいた。


「さあ? 誰かが僕たちを見つけて、食べてくれるまでさ。だって、それが僕たちのデスティニーだろ?」


マルセルは、あくまで無表情に答えた。チーズに表情があれば、の話だが。

でも、ピエールは違った。彼はただ食べられるだけのデスティニーに飽き飽きしていた。彼はこの街の向こう、遠くに見える、空に浮かぶ巨大なチーズの城壁に行きたかった。誰もが言う、そこは


「伝説のチーズ」が住まう場所だと。


ある日、一陣の風がフワリと吹いた。窓がガタガタと音を立て、皿の上のピエールを揺らした。その風は、どこからともなく飛んできた、古い新聞紙の切れ端を運んできた。そこには、インクの滲んだ文字でこう書かれていた。


「伝説のチーズ、まもなく解禁。その場所は、月の裏側、古き良き冷蔵庫の奥」


ピエールは、ブルブルと震えた。これは、彼が行きたかった場所への手がかりかもしれない。彼はマルセルに言った。


「マルセル、僕、行ってみるわ。伝説のチーズとやらを見つけに」


マルセルは少し驚いた顔をした。


「ほぇ?! まさか、フレンチ·ジョークだろ?君のその体じゃ、風が吹いたらバラバラになっちゃうじゃないかよ」


「ああ。それでも構わんさ。僕は、バラバラになりながらでも、少しでも前に進みたいんだ」


ピエールは思わず、ぴょんと皿から飛び降りた。

まるで小さな宇宙船が発進するように。その音に腹を空かせた鼠が、耳をそばだてているとは知らず。


そして、彼は細く裂けた体を器用に使って、夜の街をビュービュー、滑空し始めた。道行く人々は、彼の存在には気づかない。ピエールは彼らにとって、ただの影か、気のせいか、それとも残り物の古い食材の断片でしかなかった。


彼は、錆びついた路面電車のレールの上を滑り、廃棄された自動販売機の横を通り過ぎた。そこには、懐かしいコカ·コーラの瓶が埃をかぶって並んでいた。一本一本に、過去のアメリカのドリームが閉じ込められているようだった。


やがて、彼は街の中心にある、巨大な図書館にたどり着いた。そこは、まるで宇宙船のような形をしていて、壁一面に古い書籍が並んでいた。ピエールは、その中を彷徨った。彼は、本棚の隙間から、古びた地図を見つけた。それは、この街の地下に広がる、巨大な配管の迷宮を示していた。


「月の裏側、古き良き冷蔵庫の奥」


ピエールは、その配管の迷宮こそが、伝説のチーズへの道だと直感した。彼は、図書館の地下にある、誰も使っていない換気口から迷宮へと入っていった。


中には、カタカタ、と不思議な音が響いていた。

それは、錆びついた機械の歯車が回る音、水の滴る音、そして、遠くで誰かが昔の歌を歌っているような声。ピエールは、その迷宮を、まるでチーズの穴のように、一つ一つ進んでいった。


その途中、彼は奇妙なものたちと出会った。壊れたラジオは、昔の天気予報を繰り返していた。


「今日は、バナナが嘘みたいに安いです。どうぞ、愛する人に、バナナを一房贈りましょう」


古い靴下は、自分を「失われた冒険家」だと名乗り、ピエールに旅の危険を語った。


「この道は、一度入ったら、二度と戻れないかもしれない。君の体は、この迷宮の湿気に溶けてしまうかもしれない」


ピエールは、それでも進んだ。彼は、バラバラになることを恐れていなかった。むしろ、バラバラになることで、新しい自分を見つけられるような気がした。

長い旅の末、彼は迷宮の最深部にある、巨大な鉄の扉の前にたどり着いた。そこには、「冷蔵庫」と書かれていた。ピエールは、その扉に手を触れた。冷たい金属の感触が、彼の体に伝わってきた。


扉は、ゆっくりと開いた。中には、まるで星空のように、無数の小さな光が輝いていた。それは、様々な形をした、無数のチーズだった。その中心に、巨大なチーズの塊が浮かんでいた。それは、月の光を浴びて、淡い光を放っていた。


「伝説の黄金チーズ」


ピエールは、その光景に息をのんだ。彼は、ついにたどり着いたのだ。

その時、背後から声がした。


「ピエール、やっぱり君はここに来たんだね」


振り返ると、そこに立っていたのは、なんと親愛なるマルセルだった。彼は、いつものように、完璧な球体だった。


「どうしてここに?」


ピエールは驚いて尋ねた。


「君が心配だったんだ。そして、僕も君と同じように、何かを探していたのかもしれない」


マルセルは少し照れたように言った。

二人は、伝説のチーズの前に並んで立った。それは、ただのチーズではなかった。それは、この世界に存在する、すべての物語と、すべての記憶の結晶だった。ピエールは、自分の体が、この光に溶けていくのを感じた。


そして、彼は悟った。伝説のチーズとは、どこか遠くにあるものではなく、自身の内側の奥のほうにあったのだと。


彼は、マルセルに微笑みかけた。


「マルセル、僕たちはもう、酒のつまみにされるだけのチーズじゃないんだね」


マルセルも微笑んだ。


「ああ、そうだな。僕たちは、勇敢な旅するチーズだ」


二人の体が、淡い光となって、伝説のチーズに吸収されていく。彼らの物語は、この世界の一部となり、冷蔵庫社会に語り継がれていく。


夜の街に、古めかしく、かつ新しい風が吹いた。


そして、その風は、新しい冷蔵庫の物語を運び続けていく。


遠くに見える、空飛ぶ自動車の光が、まるで黄金のチーズのひとかけらのように、瞬いていた。

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