浮世のけむり

 この世は憂き世うれきよで嫌なことばかり、そんな世界で優しさなんてのは取ってつけていくアタッチメントみたいに薄っぺらい。


 人の心は、そうやって何度も取ってつけてを繰り返して、やがて、付けっぱなしにしていることに慣れてしまう。

 そうなると、自分のさかいがぼやけて、何が好きで、何が嫌いで、どんなふうに生きてきたのかも分からなくなって……ただ空洞だけが残った。


 でもそんな憂き世でも私は離れることが怖かった。ずっと地面からわずかに浮いている。しっかり立っているつもりなのに、どこか浮いている。


 大きく浮世うきよから浮いて行こうものなら、必死に浮世にしがみつく。


 きっと、そんな人は私だけじゃない。誰もがそうやって浮世から少し浮いている。形はあいまいで、すぐに風に散ってしまう。けれど、確かに存在している。


 まるで浮世に沈み込む煙だ。

 必死で形を保とうとする姿は、あわれというほかがない。


 木の枝にひっかかった風船は違う。

 枝に絡まりながらも、風船には空へ飛ぶ力がある。

 引き留めるものさえなくなれば、青空の奥へと消えていく。


 風船と私は違う。

 私には、飛ぶ力なんてない。

 もし掴んでいる枝から手を離してしまえば、跡形もなくなって煙のていも保てなくなってしまうから。


 だからしがみつく。

 掴んでいなければ、生きていられないから。

 浮世にすがっていること自体が、生きることと同じだから。


 本当は手を離しても、何ともないのかもしれない。

 風船のように軽くなって、こんな不安ともさよならできるのかもしれない。


 けれど、私はそれを望まない。

 空を見れば、浮世離れした人が沢山いて、私はそれを軽蔑の目で見ている。


 手を離してしまえば、そんなことを考えないでもいいのかもしれない。好きなことをやって、好きな言葉を吐いて、好きな人とだけ付き合って。


 それは何とも新鮮で鬱陶うっとうしくて、幼稚ようちだ。


 だから私は、浮世にしがみつく。

 たとえそれが、薄っぺらい優しさでもいい。

 たとえそれが、すぐに消えてしまう繋がりでもいい。

 私はそれにすがる。

 人の吐息のようにはかないものであっても、浮世を離れていない人たちには確かに心がある。


 それでいいのか、と問われても、私には答えられない。

 浮世から離れられない人たちが作ってきた煙は、私の世界に充満している。


 浮世を嫌いながら、私は浮世を愛している。

 そんな矛盾の中で、私は浮世にしがみつく。


 私は浮世から離れた世界なんて知りたくもない。




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