2ー1
図書館に通うことは、いつしか真琴の一日の中で「揺るがない約束」になっていた。
朝の時間割表を眺めるとき、昼休みに友達とおしゃべりをするよりも先に浮かぶのは、放課後の図書館の光の具合だった。教室の喧噪や昼の時間の行き交いの中でこぼれ落ちそうになる自分を、図書館はそっと包んでくれる場所のように思えた。
来る日も来る日も、同じように鞄のファスナーをきゅっと閉め、校門を抜けるときには心の中で小さな確認作業をする。今日は先輩がいるだろうか。ノートを忘れていないか。ペンは書きやすいか。些細なチェックリストができているのが自分でも可笑しく、でもそのリストに従っているだけで安心できた。真琴は自分がある種の「儀式」を繰り返していることを、どこかうれしく感じていた。
図書館の扉を押すたびに、独特の紙とホコリの匂いが鼻腔に入ってくる。その匂いは真琴の心を静め、子どもの頃に通った小さな図書室の記憶を呼び起こす。窓から差す午後の光が本棚の背を淡く縁取り、埃の粒がひかりに浮かぶ。彼女はいつもよりゆっくりと息を吸い、胸の奥にあったざわめきを小さくなだめてから自分の定位置へ向かった。
定位置──と言ってもそれは固い決まりではない。ただ、自然と座ってしまう場所がある。入り口から四つめくらいの列の、窓に近い机。そこに座ると外の景色が少し見えるし、廊下の方もちらりと見渡せる。人が出入りする音が程よく届くけれど、集中を切らすほどではない。真琴にとってそのバランスがちょうどよかった。
机に座るとまずするのは、鞄の中のノートを取り出して表紙の角を軽くなでることだった。表紙には小さな折り跡が増えてきて、角のところは少し使い込まれた色になっている。真琴はその手触りを確認するたびに、なんだか自分が確かに「ここにいる」と思えるのだった。ペンを出して、筆圧を確かめるように紙に軽く線を引く──その音、わずかな感触、そしてページに残るインクの匂いまでが、彼女の「落ち着ける手順」に含まれていた。
最初の数日は、先輩の存在がただ「視線の向く先」だった。紗世はいつも通りに机に向かい、黙々と本をめくり、ノートに文字を綴る。真琴はその横顔を観察して、それを忘れないように小さくメモする癖がつく。メモは当然、学習のためのものではない。髪の束が肩に落ちる角度、ペンを持つ指の先の爪の形、ページの端を折る癖、ため息の間隔——そんな零れ落ちるような細部を、まるで植物図鑑を写すかのように写し取っていった。
ある日、真琴はふと気づいた。自分がノートの隅に書くのは、教科の要点だけではなくなっている。小さく「先輩の左手の薬指に細い白い線がある」とか「ページをめくるとき、唇が小さく動く」とか、学問とはなんの関係もないことばかりが増えていた。けれど、その無意識の観察が、真琴の心を満たしているのは確かだった。自分の内側に新しい喜びが芽生えているのが分かった。
図書館で過ごす時間のルーティンは、日によって微妙に違う。テスト期間中は来る時間が遅くなったり、放課後の部活の日は滞在時間が短かったりする。けれど真琴はどんな日でも、先輩の席を確認することだけは欠かさなかった。先輩がいない日もあり、その日は胸にぽっかり穴が開くような気分になったが、そんな日があるからこそ、先輩がいる日はより鮮やかに感じられた。
観察に飽き足らなくなったとき、真琴はノートに「今日の気付き」と題して小さなリストを作り始めた。そこには日付とともに、先輩がしていた小さな行為が書かれる。たとえば、四月十二日には「窓ガラスに指で小さな丸をつけて曇りをはらった」とか、五月三日には「うっかりお菓子の包み紙を落として真琴が拾ってあげた」といった具合だ。そのリストは誰に見せるわけでもないが、真琴にとっては日々の証しだった。自分が確かに観察し、感じ、覚えていることの証明になっていた。
そのうち、真琴は先輩に対して小さな「仕事」を作るようになる。先輩が参考書のページをめくるときに、ちょっとだけ視線をそらしてはいけない。先輩が眉を寄せたら、余分に静かにする。先輩が息を吐くたびに、自分も深く息を吸って呼吸を合わせる。そんなふうに呼吸や動作を合わせると、驚くほど安心した。彼女はその感覚を「一緒にいることの確認」と呼んだ。
図書館の時間はまた、真琴にとって「小さな挑戦」の場でもあった。先輩に向けて視線を送っても、会話をするのはまだ難しい。心臓が高鳴り、声が震える。だから代わりに、ノートに書くことを選んだ。最初は小さな言葉──日付、天気、読んでいる本のタイトル。そこから少しずつ、彼女の内面が文字として表現され始める。ノートに書くときの筆圧が少しだけ強くなることに真琴自身も気づいていた。文字は丁寧に、しかし勢いよく。まるで内に溜まった気持ちを押し出すようだった。
ノートは静かな会話の手段へと変わっていった。彼女はページの片隅に短いメモを書き、先輩が目を離したすきにそれを机の端へそっと滑らせる。最初はただのあいさつや本の感想だったが、やがてそのメモは二人の小さな交換となり、読まれるたびに真琴の胸は浮き立った。メモを通して先輩がどんな表情をするか、手の動きがどう変わるか。そういう「反応」を観察することもまた、真琴にとって日々の楽しみになった。
ある夕方、薄曇りの空から小雨が落ちてきた。図書館の窓に雨粒が描く模様を見ながら、真琴はいつものようにノートに向かっていた。外はしんと静まり返り、ページをめくる音がいつもよりはっきりと聞こえる。ふと顔を上げると、先輩が自分の方を見ていた。その視線は驚きも驚嘆もなく、ただ柔らかい好奇心が宿っているだけだった。先輩の手には折り畳み傘があり、机の上にふと間違って置いたスマホを拾うように手を伸ばしてから、真琴のノートに視線を戻した。
「今日は雨、降ってきたね」──先輩の声は、いつにも増して低く、でも聞き取りやすかった。
真琴は頭の中が真っ白になった。返事を考える、その一瞬が永遠のように感じられる。結局彼女が出したのは、緊張した小さな声だけだった。
「う、うん……」
それでも先輩はにっこりと笑い、短い会話をいくつか交わした。その会話は真琴にとっては宝物のように記憶される――傘の柄の握り方、雨の匂い、先輩の笑いで生まれた頬の皺、ノートの紙の折り目。小さなやり取りがひとつ増えるだけで、真琴の世界は確実に変わっていった。
繰り返される日々の中で、真琴のノートには細かな「儀礼」が生まれる。ページの端を少し折って目印にする、インクが乾くまで息をひそめる、書き損じを二度と見せないために下書きを別のページに書く──そうした些細な所作が、真琴にとっては大切な自分磨きだった。自分の字が読みやすいか、行間が狭すぎないか、それだけで先輩に読み返してもらえるかどうかが変わってくるような気がしたのだ。文法や言葉遣いを気にするあまり、彼女の文字は丁寧になり、文字列の中に真琴の慎重さが表れた。
だが日々がただ続くわけではない。紗世が忙しくて来ない日、テストで長時間残っている日、夏休みの前後で図書館が開放されない日。そんなとき、真琴は胸の中にぽっかりと穴が空いたような感覚になる。ノートを握りしめるとき、紙の匂いがより強くなり、先輩の不在が文字になって浮かび上がる。そういうときは、ノートに「待ってるよ」とだけ書いてみたり、自分の一日を細かく綴ってみたりする。そうすることで、彼女は「離れても繋がっている」感覚を保とうとした。
時間が少しずつ流れ、季節は穏やかに変わっていく。初夏の風が窓を軽く揺らす日、真琴はふと自分の中で変化を感じる。以前ならただ見つめているだけで満足したはずの心が、もっと具体的な形を求めていることに気づく。言葉を、もっと直接に、先輩に伝えたい。けれど伝え方が分からない。だから彼女はノートという媒介に頼る。紙の上になら、怖くない。文字ならば自分の鼓動を少しだけ抑えた形で渡せるようだった。
図書館通いが習慣になってからのある夜、真琴は家に帰ってからノートの最後のページをめくり直していた。そこには、些細な日常の記録、先輩の笑顔への小さなメモ、雨の日の匂いへの言葉、そして自分の小さな決意が混ざり合っている。ページの端に、自分の筆跡で「いつか、はっきりと伝えたい」と書き足した。その文字は揺れていたけれど確かな線だった。真琴はその行を見つめながら、深く息を吸い、翌日の図書館の時間を考えると、胸が期待に満ちて温かくなるのを感じた。
そしてまた翌日、同じ扉を押して入る。いつもの光、いつもの匂い、そしていつものあの人。図書館はいつもそこにあって、真琴は自分の小さな世界を一日一日と積み上げていく。ノートはその日々の証拠であり、そして未来への予告でもあった。彼女の観察は、いつしか習慣を越え、静かな確信へと変わっていく。その確信は言葉にすればまだ頼りないけれど、真琴の胸の中では確かに育っていた——これからもここに来る。ここで待つ。そしていつか、先輩に自分の気持ちを伝える日が来るだろう、と。
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