第4話 生家
夏期補修が休みの日に航空券が取れたのは幸運だった。朝早くの便でH空港から羽田空港に向かい、港区の住所に到着したのは11時ごろだった。
まず玲が住んでいたマンションに行ってみたが、懸念があたり、玲が住んでいたマンションは建て替えられていた。念のため、管理人に聞いてみたが建替え以前の入居者については何も知らなかった。付近の様子は、ところどころ玲の記憶に残っているようだったが、決め手になるような情報は無く、早々に川越市に向かった。
港区からは1時間30分くらいかかり、最寄り駅からもタクシーで15分くらいかかった。埼玉県川越市郊外。宅地開発が進んでいるものの、あちこちに雑木林が残っている。
タクシーから降りた途端、井上と玲はむっとする熱気に包まれた。
「さすがに暑いな」
井上は早速ペットボトルを開けて水分補給をしている。玲は、周りを見渡している。緑地の向こうに大型のスーパーが見える。
「あの店知ってる…」
F県では見ないチェーン店だが、玲はじっと見ている。
「僕、ここに住んでた…」
そうつぶやいた玲の肩を井上は軽く叩いた。何か声をかけようかとも思ったが、いい言葉が思い浮かばず、とにかく大丈夫だと伝えたいと思っての行動だった。
調停調書に書かれた住所はタクシーを降りた所からすぐの角を曲がったところだ。
郊外らしい庭の広い一軒家がそこにあった。
玲の表情がこわばっている。
「住所はここだが…」
しかし、表札が梁田ではなかった。
玲はじっとその家を見ている。井上は玲の肩を軽く叩いた。
「どうやら引っ越したようだ」
念のため、今の住人に話を聞いたが、梁田のことは知らないようだった。
「ここまで来て手がかりなしか。すまなかったな。収穫なしで…」
「いえ」
玲は表情を変えずに言った。井上は玲から何の感情も感じられないことが不思議だった。愛情も憎悪も感じられない。しかし、何の感情も無いのなら、ここまで来たりもしないはずでは?
結局、何も得るもの無くF市に戻った。井上にとっては財布が軽くなっただけだった。
埼玉行の数日後の夕方、補習授業を終えて帰宅した井上は、ポストに手紙が入っているのに気付いた。赤字で「転居先不明」と書かれている。数日前に玲の父、梁田鉄男宛に出した手紙だった。既に現地まで行って不在を確認していたが、井上は改めて落胆の気持ちを抱いた。
(離婚したとは言え、実の父子なのにどうして親の所在すら知ることができないんだ?)
窓を開けると、遠くから花火の音が聞こえてくる。井上はシャツ一枚になって缶ビールを開けながら、もう一度調停調書を読み直した。どうしても調書内のほとんどを占めている面会交流の規定に目が留まる。
(ここまで詳細に決めておいて、何で会いに来ない?)
井上は、梁田鉄男のことを妻子がいながら浮気でもして玲を棄てたのだろうと思っていた。玲の母親も以前面談した時に、10年くらい会いにも来ないし養育費も払わない、と言っていたのを覚えてもいる。
しかし、面会交流に関する執拗なまでの合意事項は、梁田鉄男が必至で面会を求めたようにも感じられ、そこに違和感があった。
(梁田さんよ、あんたは今どこにいる?)
なんとなしに調停調書をパラパラとめくっていて、あるページに目が留まった。
同代理人弁護士 川辺 義典 (出頭)
梁田鉄男の弁護士の名前だ。
「待てよ。弁護士ならネットで検索できるんじゃないか?」
井上はほとんど確信しながらそうつぶやき、タブレット端末を取り出した。
川辺 義典
登録番号 XXXX
弁護士会 第一東京
事務所名 川辺義典法律事務所
井上は軽く手を握って小さくガッツポーズを取った。あとは川辺義典法律事務所の連絡先をネットで調べればいい。守秘義務があるとは言え、親権を争った実の息子からの要望であれば、少なくともこちらからのメッセージを梁田鉄男に伝えてくれはするだろう。井上は、そう確信した。
翌日、井上は川辺弁護士に電話をした。川辺は守秘義務があるので教えられないと言ったものの、子どもからの伝言については梁田鉄男に連絡をとってみると約束してくれた。
その後、川辺から井上に連絡があった。梁田鉄男は自分の知っている住所からは引っ越していて現住所はわからない。井上は落胆したが、それ以外に、一つ新しい情報を川辺が教えてくれた。
梁田鉄男の離婚調停の代理人は川辺以前に源真由子という弁護士が担当しており、源弁護士はF県から近いO県に事務所を構えているとのことだった。川辺は既に源弁護士に連絡を取っており、そちらに連絡してもらって構わないとのことだった。
井上は、源真由子弁護士を検索することにした。
源 真由子
登録番号 XXXX
弁護士会 O県
事務所名 源弁護士事務所
「O県、源弁護士事務所。意外に近いな」
高速を使えば、2時間くらいで行ける場所だ。すぐに電話をして会って話を伺いたい旨を伝えたが、運よく翌々日に時間がとれるとのことだった。
8月3日、井上は玲を連れて自分の車でO県に向かった。
源弁護士事務所は、地方都市の駅前にあった。約束より少し早い時間に事務所を訪ねたが、案の定待たされた。20分ほどして約束の時間を過ぎた頃に、遅くなったことをわびつつ源真由子弁護士が現れた。30代後半の落ち着いた感じの女性だ。
「灰野玲です。」
玲が立ち上がって挨拶をする。少し遅れて井上も立ち上がり、挨拶をして付け加えた。
「お世話になった時は、梁田玲という名前だったはずです。」
用件は事前に伝えてあったので、源弁護士はまず玲の姿を見て以前の面影を感じているようだった。
「ああ、覚えてますよ。大きくなりましたね。私が会った時はまだ3歳だったから覚えてないかな?」
玲は少し沈黙した後、すみません、と謝った。
井上には聞きたかったことがいくつかあった。
「玲の両親は調停で色々取決めていたようですが、今は養育費も面会交流も途絶えています。こういうことってよくあることですか?」
「残念ながらよくあることですね。私が担当した事件がこんな結果になって本当に残念です」
源弁護士は、書類の束を指で整えながら言った。
「養育費も出さないというのは、子に対する愛情が無いのでは?」
井上は、思わず口を挟んだ。
「離れて住む親にも色々事情があって、一概にそうは言えませんよ。もし、この事件で合意された分の養育費を請求したいのであれば、私は受任できませんけど、他の弁護士に依頼すれば別居親の給与を差し押さえることもできますが」
玲は黙って聞いていた。源弁護士は、玲の方に向き直ると、少し柔らかい声で言った。
「お父さんは、とてもあなたのことを可愛がっていましたよ」
玲の目がわずかに揺れた。井上は、すかさず訊ねた。
「今、どこに住んでるか御存知ですか?」
源弁護士は、少しだけ表情を曇らせた。
「守秘義務がありますから、私から具体的なことは言えません。でも……調べる方法はありますよ」
離婚前の本籍地の除籍謄本を取り寄せて、そこから辿る方法だった。郵送でのやり取りになるが、玲本人を受取人にすると玲の母親にも知られる可能性があったので、玲に委任状を書いてもらい、井上が申請することにした。源弁護士による一般論としてのアイデアであった。
数日後、井上は東京都板橋区から返信を受け取った。戸籍を動かしていなければ戸籍謄本、動かしていれば除籍謄本が入っているはずだ。戸籍謄本であれば、その附票で現住所もわかる。
封を切って中身を取り出した井上は、遂に梁田鉄男が今どこにいるのかを知った。
「先生、父の戸籍、届いた?」
ここ2、3日、玲は補修がおわるとすぐ聞いてくる。父親に対する感情も以前、父親の話を避けていた頃と全く変わってきている。
母親によって10年間に渡って抑えつけられ、表現することすらできなかった父親に対する愛情がよみがえりつつあるようだ。
「ああ、住所はわかった。今、手紙を出して返事待ちだ」
「本当?どこなの?」
「まあ待て、返事が来ないと本当にそこに住んでいるかわからない」
それから数日経ったある日。
「灰野、お父さんの居場所がわかった。神戸の灰野のお祖父ちゃんの住所にいるそうだ」
「神戸のお祖父ちゃん?」
井上は頷いた。
「明日からお盆休みだが、灰野に予定がなければ一緒に行ってみるか?神戸なら朝出れば夕方には戻れる。交通費は・・・、先生が出してやる。」
ルーツ 蟻島 @alishima
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