第3話 調停調書

 数日後、補習授業の開始直前に、玲は井上のところに駆け寄ってきた。かなり興奮している様子だ。

「先生、見つけたよ。」

 井上は何のことかわからなかったが、すぐに玲が言葉を次いだ。

「父親の手がかりの書類、家にあった。」

 補修後、他の生徒が下校したのを見計らって、玲は井上と進路指導室に入った。部屋に入ってすぐ玲が鞄から出して机の上に置いた書類には「調書(成立)」と書かれていた。

 「事件の表示」という項目に「平成22年(家イ)第○○○○号 夫婦関係調整申立事件」と「平成22年(家イ)第×××号 子の監護者の指定調停申立事件」と二つの事件名が書かれている。期日は「平成23年7月○○日 午前10時00分」、場所は「東京家庭裁判所」、その下には、家事審判官、家事調停委員、裁判所書記官の名前が並んでいる。

 井上も玲も始めて見たが、これが離婚調停の調停調書だった。

「2ページ目に僕の父親の名前と住所が書いてあるよ」

 玲は井上に早く2枚目を見るように促した。


 (別紙) 当事者目録

 家庭裁判所調査官 古村 裕一 立会い

 本籍 東京都板橋区前野町○丁目○○番

 住所 東京都港区高輪○―○―○―○○

 甲事件申立人兼乙事件相手方(以下「申立人」という。)

        梁田 鉄男 (出頭)

 同代理人弁護士 川辺 義典 (出頭)

 本籍 申立人に同じ

 住所 F市H区N○番○―○○○号

 甲事件相手方兼乙事件申立人(以下「相手方」という。)

         梁田 あずさ (出頭)

 同代理人弁護士 戸田 美佐江 (出頭)


 これで梁田の住所がわかる。少なくとも、平成23年、2011年7月の時点では東京都港区に住んでいたことになる。井上はこれで玲の父親を見つけられると確信した。しかし、電話番号などがないので、手紙を出すか、訪問するしかない。訪問するには、F県から東京まではあまりにも遠い。

「とりあえず、手紙を出そう」

「うん、あと、この住所の画像をネットで見てみようよ」

 井上はタブレット端末を取り出し、ネットで港区の住所近辺の写真画像を検索した。大きな幹線道路沿いにあるドラッグストアを見て、玲ははっと息を呑んだ。

「この店、知ってる」

 井上は、調停調書の住所を確認した。

「住所だと、この店の隣のマンションのはずだが…」

 ドラッグストアの左隣のマンションの画像を出してみたが、玲は戸惑っている様子だった。

「見覚えないか?」

 そう確認したが、玲は黙ったままだ。

(ここではないのか?)

 しかし周辺の建物については、玲は見覚えがあると言う。井上が悩んでいる間も玲は周辺の画像を色々見ている。

「10年前のことだし、灰野が住んでた時のマンションは建替えられたのかも知れんな。」

 玲は黙っていた。


 2022年7月27日水曜日。

 夕方、補習授業を終えて帰宅した井上は、部屋の冷房をいれ、缶ビールを飲みながら、井上は改めて玲の両親の調停調書のコピーを読んでみた。

 離婚の調停調書を始めて見る井上にはわからなかったが、玲の両親の調停調書は29項目46号に渡る極めて詳細な内容になっていた。合意内容は、親権者、養育費、面会交流、財産分与に関する内容に分けられ、特に面会交流に関して、日時、頻度、受け渡し場所、連絡方法など事細かに、全体のほぼ半分を費やして書かれていた。

 その中で、井上の目に留まったのは財産分与に関する取り決めであった。

 離婚当時、玲の両親が持分半々で持っていた家屋について、玲の母の持分を玲の父、梁田が引き取ると共に玲の母名義の住宅ローンについて、梁田が残金を立て替えるという内容であった。その財産分与の対象となった家屋の住所が書かれていた。


 川越市K○○○○番○○


「ひょっとして、梁田はここに引っ越したのか?」

 井上は先日、梁田鉄男の港区の住所宛にはがきを出していたが、その際に買ったはがき3枚セットの残りを取り出した。

「こっちにも出しておくか」

 そうつぶやきながら、前回出したはがきの文面を思い出しつつ、はがきを書き始めた。


 翌日の夏期補修後。

「灰野、お前埼玉県に住んでたことあるか?」

 急に井上に聞かれた玲は、一瞬戸惑った。

「ないよ。何で?」

 井上は調停調書のコピーを取り出し、最後のページを見せた。財産分与の対象となった家屋の住所が書かれている。

「離婚した時は都内に住んでたようだが、埼玉県に一軒家の持ち家があるというのが引っかかってな。しかも名義は灰野の父親と母親が半々で持っていたようだから、結婚してから買ったんじゃないかな。子どもが生まれたタイミングで家を買うのはよくある話だし…」

 玲が黙ってうつむいているのを見て、井上は話すのを止めた。

 しばしの沈黙の後、玲は「覚えてない」と小さな声で言った。

 離婚が成立した時、玲はまだ4歳。その時は東京都港区に住んでいた。それ以前に埼玉に住んでいたとすると、玲は3歳か2歳か。覚えていないのが当然だった。しかし…。

(ひょっとして思い出したくないのか?)

 玲は父親についてほとんど話したことがなかった。父親の所在を探し始めてからも、それは変わっていない。

 父親探しを言い出した井上としては、言い出したことが正しかったのかどうか気になっている。しかし、虐待などのトラウマに触れる可能性から慎重に直接的な問いただしを避けていた。

 しかし、玲が父親に会いたがっていないようには感じない。最初に父親ならどう言うか、と言い出したのは玲だったことからも、長い間会っていない父親に対する執着を感じた。

(嫌悪と親愛が入り混じっている。)

 玲はまだ黙り込んでいる。

 井上は、財布を取り出し中身を確認した。給料日直後で多少の余裕はある。

「灰野、先生と一緒に東京と埼玉に行ってみるか?」

 玲は顔を上げ、驚いたような表情で井上の方を見た。その表情から嫌悪も親愛も読み取れない。

「航空券が取れれば、金は先生が出す。心配するな。」

 玲は断らなかった。


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