第2話 夏休みの調査

 2022年7月21日木曜日

 父親を探すことは、玲の母親には知らせないことにした。玲が強く拒絶したためだが、井上にとっては途方に暮れざるを得なかった。

「まずは、いつ離婚したのか、父親の名前は何なのか、だが…。灰野、住民票は取って来たか?」

 夏休みの補修後、玲と井上は誰もいない進路相談室で、父親の手がかりを探している。

「取ってきたけど、父親のことは何も書いてないよ」

 井上が見ると、「平成29年5月29日」で今の住所に転居したことになっている。5年前だ。

「灰野、お前小学生の時に引っ越したのか?」

 玲は頷いた。聞くと、小学4年生の時と2年生の時に引っ越している。これでは住民票からは何もわからない。

「次は戸籍謄本を取って来ないとな…」

 住民票に記載されている本籍地が手がかりになる。

「離婚したのは灰野が小学生の時か?」

「保育園の時」

 玲は小さく首を振りながら答えた。


 その日は、その他に手がかりになりそうなものについて二人で考えた。

 まず、玲が通っていた保育所、県庁近くのC保育所で、当時のことを知っている保育士に聞いてみること、そして玲の自宅に父親の写真や住所のわかるものがないか母親にばれないように調べることを決めた。

 翌日の夏季補修後。

「【父】梁田 鉄男(やなだ てつお)。現住所は…、わからんか。従前戸籍は、F県D市の灰野勝也…」

「お祖父ちゃんの名前だ」

 井上は戸籍謄本でかなりの情報がわかると期待していただけに、落胆している。灰野の母親は離婚した後、一度実家の戸籍に戻りその後、分籍している。そのため、結婚していたときの戸籍地も消されてしまっていた。手がかりは名前のみ。

「これじゃ結婚していた時、どこに住んでたのかもわからんな…」

 落胆している井上を見て、玲が古い記憶を辿るように言った。

「確か、東京に住んでたよ。何回か東京タワーに行ったのを覚えてる。でも、うちのパソコンの中を探しても、東京にいた時の写真も動画もなかった…」

(東京か。東京の梁田鉄男、だけじゃ探しようがない。灰野の母親は、10年位前に灰野を連れてF県に引っ越してきた…)

 しばらく井上は黙っていた。玲は不安げに井上を見ている。

「灰野。お前、父親のことをどのくらい覚えてる?何して遊んだとか、どこへ行ったとか。」

 玲は小さく首を振った。

(あんまり父親に遊んでもらえなかったのか…)

 少し考えた後、井上は立ち上がった。

「とりあえず、C保育所に行って聞いてみるか。」


 夏季補修は午前中で終わる。井上は玲と定食屋で昼食をとった後、車でC保育所を訪ねた。

「玲くん、大きくなったねぇ!」

 こちらの名前を告げると、年配の女性保育士が満面の笑みで迎えてくれた。玲を知っている保育士が在籍していたことで井上はほっとした。玲が卒園してからほとんど10年経っていたので、井上は当時の保育士が残っていないことを懸念していた。

 井上と玲は、応接室に通され座りにくいソファに腰をかけた。程なく先ほどの保育士がお茶を持って入ってきた。

「僕の父について知りたいんですが、教えてくれませんか?」

 唐突に質問された保育士はちらと井上の方を見て怪訝な表情をした。

「ごめんなさい、ええとあなたは灰野君とどういう御関係の方でしょうか?」

 保育士は明らかに井上を警戒している様子で、玲の質問に答えるより先に聞いてきた。

「ああ、申し遅れました。私はC中学の教師で灰野君の担任をしております井上と申します。」

 井上は出来る限り丁寧に挨拶をしたが、保育士の警戒感はまだ解けない様子で、さすがに井上でも保育士の反応がおかしいことに気づいた。

「あ、ああ、そうですか。はじめまして。私はこちらの保育士で多田と申します。えーと、玲くん、パパのことならママに聞いたほうがいいんじゃないかな?」

(この保育士は何か知っている)

 そう感じた井上は、灰野が答える前に割って入った。

「いえ、夏休みの課題の一環として、両親について学ぼうという宿題を出しておりまして、もちろん母親にも聞いているのですが、家族以外からの視点も必要と考え、こちらに来た次第です。ご協力いただけませんか。」

 井上がにこやかにデタラメを言うのを聞いて、玲は少し驚いた様子を見せたが、遅れて「そうです。教えてください」と続けた。

 こう言われると話を反らすわけにもいかず、保育士の多田は愛想笑いをしながら言い逃れを考えた。

「あら、そうなの。そうねえ、それなら小学校で聞いたらどうかしら?うちの保育園に玲くんのパパが見えられたのは卒園式の時だけだったから。」

 多田はとにかく自分からは情報を出さずに済ませようとしたのだが、その内容は井上を驚かせた。

(卒園式?灰野の父親は離婚後もF県に会いに来ていたのか?)

 どう確認しようか、井上が言葉を選ぶより早く、灰野が答えた。

「そのパパじゃなくて、古いパパの方」

 井上はさらに驚かされた。保育士は、口を滑らせたことに気づいた。

「そう。古いパパの方だと先生はわからないな。ゴメンね。」


 保育園裏手の駐車場に軽自動車を停めていたが、夏の炎天下にあったためしばらくドアを開け、換気した。井上はジュースを買ってきた玲からおつりをもらいつつ、切り出した。

「灰野のお母さんは再婚してたのか?」

 玲はジュースのふたを開けようとしていた手を止め、しばし黙った。

「再婚はしてないけど…」

 玲の話では、玲の母親は梁田と離婚してF県に引っ越してきた後、すぐに別の男と付き合って、玲にもパパと呼ばせるようになったらしい。その男は母親のいる場所では、玲に優しくしてくれたが、母親がいない時は不機嫌そうに玲を無視し、時に手を上げることもあったようだ。

 母親はしきりに、「梁田さんと違って、新しいパパは優しいでしょ?玲くんも新しいパパがいいよね。」と玲に促したため、影で振るわれる暴力に玲は怯えつつ、母親の前ではその男になつく『良い子』を演じていた。

 小学校1年生の終わり頃に、その男が玲を殴っているのを母親が見て、大喧嘩になり、その男は母親を殴った後、家を出て行き二度と戻ってこなかった。

 母親は玲が殴られたことを気遣ったが、一方で自分が殴られたことも玲に訴え、玲も母親に対し「ママ、大丈夫?」と気遣う仕草を見せたという。

(本心からの気遣いというより、義務感から?)

 一見、普通の仲の良い母子に見えていた玲と玲の母親の関係が、何だか親子が逆転して見えてきた。井上はそう感じている。

 日光をさえぎる物がない駐車場は地面から陽炎をのぼらせている。園内からは、園児がはしゃぐ声が聞えてくる。

 車の中に風が入ったのを確認し、井上と玲は車に乗り込んだ。井上はエンジンをかけるとすぐさま、冷房を全開にする。ゴウといううなり声をあげながら最初は熱風が、間もなく冷風が流れてきた。井上は車の窓を閉め、シートベルトをつけると、玲もシートベルトをつけたことを確認してから車を動かした。

 C保育所から玲の家までは、車で10分とかからない場所にある。玲を車で送っていく途中、井上は玲に宿題を出した。

「灰野。お母さんに見つからないように、離婚に関する書類を家で探せないか?市役所や保育園で聞いても、これ以上は調べようがなさそうだ。」

 玲は黙って頷いた。


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