ルーツ

蟻島

第1話 相談

「まあ、あんまり気にするな」

 灰野玲(れい)は、井上先生の言葉の意味を図りかねた。自分こそが先日のことを気にしないように先生に言うつもりだったのだ。

 軽く戸惑い黙っている玲の横に井上は座り、話を続けた。

「別の親からもっとひどいことを言われることもあるし、先生は気にしていない」

 教室には玲と井上の二人しかいない。窓からはクラブ活動をしている生徒の声と夕日が入り込んでくる。


 井上は30代後半の社会科教師で、父親のいない玲にとって学校の勉強以外のことも気軽に話せる相手だった。

 高校受験を控えた中学3年の初夏、玲は担任の井上に、高校の進路について相談した。相談内容は自宅から通える範囲のF高校に進学すべきかどうか、というものだったが、井上はすぐにそれが玲の本心ではないことに気づいた。というのも、玲は以前から県外にある全寮制のN高校に進みたいと言っていたからだ。

 体の弱い母親に気兼ねしている、井上はそう感じ取った。

「灰野、自分が行きたいと思う所に行けばいい。成績が悪いならともかく、お前の成績なら奨学金だって取れるんだし。お母さんのことが心配なら、三者面談の時にでも先生から話してみるぞ。」

 玲はそれを聞いて、驚いたような、ほっとしたような、複雑な表情を見せた。その後、進路とは関係のない世間話を続けたが、終始和やかで、時に玲が軽口を叩き、それに対して井上が怒ってみせる、そんな他愛のない時間を過ごした。その時はそれで何事もなく玲は帰宅したが、翌日から、玲は井上から目を反らすような態度で避けるようになった。

 井上は不審に思ったが、職員室で学年主任の田所に呼び出され、その理由を聞いて得心がいった。どうやら玲の母親が、苦情を言ってきたらしい。

 玲は自宅から通える高校を希望しているのに、井上から県外の高校に行くよう強要され、さらに井上が玲を叩いた、という。

 定年間際の田所は、保護者のクレームには慣れていたが、灰野玲の母親がクレームをつけてきたのは初めてだったので、まず当事者の井上に事実を確認しようとした。

「叩いてませんよ。」

 全く身に覚えのないことを言われた井上は、動揺しながらもはっきりと否定した。

「灰野君自身が灰野君のお母様に、先生に叩かれた、と言ったそうです。」

 特に問い詰める風でもなかったが、田所も真偽に興味がある様子で、何か思い当たることはないか、繰り返し尋ねた。

 玲は学校では友達は多くないようだが、問題も起こさず、素直で成績も良いため教師にとっては教え甲斐のある生徒だ。それだけに嘘をついて担任を困らせるというのは考えにくい。一方の井上も教師としては中堅で、これまで生徒に対して暴力沙汰など起こしておらず、進路についても生徒本人の希望をよく聞く方であったので、灰野の進路を勝手に強要したとも思えない。確かに灰野の成績から判断すれば、県外のN高校に行くこともできるだろう。自宅に近いF高校もレベルの高い高校だが、知名度はN高校の方が上だ。そもそも、受験日程も異なるのだから、両方とも受ける手だってある。N高校を受験しろと言われて普通なら親が怒るなんてことはない。

 田所はそこに違和感を抱いていた。

「三日ほど前に…」

 井上は頭に右手を当てながら、詳細を思い出そうとする素振りをしつつ話し始めた。

「放課後に灰野と世間話をしてたんですが、その時、灰野が『先生はまだ結婚できないの?』とか言ったので、軽くつっこみを入れる感じで叩きましたが…。それのことかも知れません」

 田所は顔をしかめながら目を閉じた。

「なるほど」

 クレームに慣れている田所は、ありうる話だと思ったのか、それ以上は聞かなかった。


 差し込む夕日が井上と玲の影を長く伸ばす。

「すみません…」

 隣に座った井上の顔を見ずに、玲はうつむいたまま謝った。

「お前が悪いわけじゃない。言ったろ、気にするなって。」

 井上と玲は黙ったまま、次第に教室の中は薄暗くなってくる。井上からは夕日の逆光で、玲の顔があまり見えない。

「…父親なら」

 夕日の中で玲が話す。

「父親なら、どう言うんですか?どっちの高校を受けろって言いますか?」

 玲の表情は夕日の影になって見えない。

 玲が母子家庭であることは知っている。父親がどうしているのか、いつからいないのか、詳しいことについて井上は聞いていなかった。聞いたこともあったが、玲が話したがっていないことがすぐにわかったので、それ以上、井上は聞かなかった。しかし、玲が小学生になる前に父親がいなくなったことは、話の端々から井上は何となくわかっていた。

 幼い頃から母子家庭で、ほとんど母親しか知らない玲は今、自立心と母親に対する責任感の間で悩んでいる、井上はそう思った。


 「会って、直接聞いてみるか?」


 相変わらず逆光で玲の顔は見えないが、驚いている様子はわかった。父と会うなど不可能でありえないこと、そう思っていたようだった。しばし沈黙。

「…どこにいるかわからないし、あいつのせいでママは苦労して…」

 やはり悩んでいる。進路の問題じゃなく、家族の問題だ。井上はそう確信した。

「なら、その父親に10年分の文句を言ってやれ。そして10年分の養育費を払えって。ついでに高校進学の費用も出せって」

 井上はわざと明るく言った。

「…でも。どこにいるか知らない。ママには聞けないし…」

 いきなり玲の両肩を井上が掴む。

「探せばいい」

 玲は、まだ迷っている。

「先生も手伝う」

 玲はほんのわずかだったが、うなづいた。




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