第2話

 蝋のように白く、しなやかなものもあれば、太く骨張り歪なものもある。皺だらけで、骨がそのまま出ているんじゃないかと思う細さのものや、クリームパンのように短くむちむちしたフォルムのものもあった。

 青紫色に染まった爪は、縁に黒く変色しはじめた血が滲んでいなければ、冬場に指先が凍えたと震えるお母さんの爪に少し似ていたと思う。


 昔、まだ僕が小学校に上がるよりも前。

 お盆の親戚の集まりで、普段から僕を可愛がってくれていた叔父さんに、良いものを見せてやると得意げな様子で手招きされた。


 のこのこ近付いて行った僕に、叔父さんが満面の笑みを浮かべて差し出してきたのは、小ぶりな透明の虫籠にみっしりと詰め込まれた、大量の芋虫だった。

 泣き叫びながらお母さんに抱きついて逃げようとする僕を見て、どんな見当違いをしたらその対応になるのかさっぱり理解できないけど、慌てた叔父さんが裏の畑からとってきた、胡瓜と見紛うサイズまで丸々と大きく育った芋虫を手渡されたあの時から、僕は一切の虫がダメになった。


 昨日見たあれは虫、芋虫、見間違え。

 しこたま胃の中身を吐き出してから、ずっとそう思い込もうとしているのに、裏地まで真っ赤な光沢を放つポシェットの中で蠢いていたモノの様子を、鮮明に思い出してしまう。


 登校して早々に、もし岡村さんと顔を合わせてしまったら、僕はどんな反応をすれば、いや、できるだろうか。


 僕は入学以来、昨日はじめて彼女の存在を知った身だ。まさか開口一番「昨日のあれって手品か何か? いい趣味してるね」なんてふざけたことを言うのはありえないし、平静を装えるほど心臓は強くない。

 またあの気味の悪いナニカを見てしまったらと想像するだけで、膝がわなわなと震えだしそうなくらいだ。


 学校をサボることも考えたけれど、岡村さんが今日付けで転校するか、昨日のあれは名前も知らない同級生への盛大なドッキリだと告白してくれるか、それともやっぱり全部が僕の夢だったかのどれかでなければ、根本的な解決には程遠い。

 それに欠席の連絡も面倒だし、仮病を使おうと演技プランを練っていた僕を見るお母さんの視線が何とも痛く感じてしまって、そうこう考えていると結局あと三十分もしないうちに、家を出なくてはならない時間になっている。


 わざといつもよりゆっくり咀嚼していた朝食の焼き鮭、最後の一切れをごくりと飲み込む。


 小学校以来、皆勤賞を取り続けている自分の優等生っぷりを、こんなに疎ましく思う日が来るとは考えもしなかった。



 県南部で偏差値最下位の残念な称号を得ているが、まがいなりにも私立である僕の通う高校は、入学時から文理クラスを分けて編成されている。

 入試テストの点数と希望進路を元に、僕は文系クラスに入れられた。


 隣のクラスと言っても、岡村さんのクラスは理系クラスで、合同授業や修学レベル別の授業が一緒になることは無い。それを考慮すれば、普通に登校したところで、彼女とニアピンする確率はそれほどでもないんじゃないか。

 一度はそう考えてみたけれど、自分の考えを僕は自分で否定した。


 思い返してみれば、僕が岡村さんの存在を認識したのは、恐らく昨日がはじめてではない。彼女、もといあの真っ赤なポシェットは、間違いなく何度も僕の視界に入っていたのだ。


 僕の通う高校は、時代錯誤なくらい校則が厳しい。指定の鞄にキーホルダーやステッカーを装飾したら容赦なく没収されるし、荷物が入りきらない時用のサブバッグ、更にそれでも入りきらなかった物用のサブバッグまで指定されている始末だ。

 靴下も校章入りの指定のやつで、上履きも学校のオリジナル。ローファーですら、学校が準備したものを買わされる。

 生徒たちに許された個性を出す持ち物なんて、せいぜい筆箱やシャープペンといった文房具くらいだろう。


 移動教室用に校章が大きく印刷された帆布地のナップサックも用意されていて、購買に行く時なんかに財布を手持ちしているのを先生に見られた日には、みっともないと怒声が飛んでくるような学校だ。

 生徒はみんな軍隊みたいに同じ格好をして、思春期の心を押し殺しながら生活している。


 教師に反発して積極的に校則を破る連中は、だいたい誰が何を取られたや、何何をして怒られたと、被害者思想で場所も構わず喚き散らすから、同じ学年くらいなら、誰かが校則に関する叱責を受ければ、僕みたいな友達の少ない奴にもすぐに情報が入ってくる。


 記憶の中の画角に現れる岡村さん(まだ岡村さんという個人として認識していなかったけれど)はいつも、悪目立ちしたいですと主張するかのように、あの赤いポシェットを身に付けていた。

 けれど普通なら速攻で没収されている筈の彼女のポシェットは、風に乗って流れてくる噂話にすら上がらないくらい、誰もあれに言及しない。


 そうなると考えられるのは、岡村さんのポシェットに何か特別な事情があって、あえて目立つ鞄を所持する必要があると、教師も含め周囲に説明しているのではなかろうか。


 グラウンドの方から、朝練に励む運動部の声が響いている。夏を間近に控えている筈の暦を無視して、気温はすでに夏日を超え、始まるには早過ぎる蝉の鳴き声が、正門から続く並木一帯から聞こえてきた。

 考えたところで何の成果も得られない推察を繰り広げるうちに、慣れた足はとっくに校舎の昇降口前まで辿り着いてしまったようだ。


 うっすら汗の浮かんだ首元をシャツで扇ぎながら、自分のクラスの下駄箱を目指す。

 いつも通り昇降口の奥まった場所を回り込むようにして、一年B組の下駄箱の前に辿り着いた瞬間、僕の足はセメントで塗り固められたように動かなくなった。


 上から数えて四番目、丁度棚の真ん中あたり。身長が160センチから伸び悩んでいる僕に丁度いい位置の棚を、少し見上げる形で覗き込む横顔は、まだ見慣れないけれど、忘れられなくなってしまった顔だ。


 どんぐり眼から斜め上に生える睫毛は長く、薄暗がりの中でも少し光を帯びているように見える。正面から見るより先端がツンと尖った鼻は、続く唇の曲線も相まって、清潔感のある綺麗さがあった。

 茶色みの無い黒髪が、下駄箱の隙間から差し込む陽射しで僅かに煌めく。


 昨日の失礼な男子たちは、彼女を学年で六番目だなんて評価していたけれど、まったく節穴にも程があるんじゃないだろうか。

 嘔吐するほどの恐怖を感じさせられた相手の容姿に見惚れている自分に気付くまで、僕の靴箱を覗き込む岡村さんの横顔を、僕は微動だにせずただじっと見つめていた。


「昨日、見えてたよね」


 唐突に無音の空間に響いた声に、ハッとする。鈴を鳴らしたような透明感のある、真っ直ぐで聞き取りやすい声を出した張本人は、視線を靴箱から外すことなく再度口を開いた。


「これの中身、ちゃんと見えてたでしょう」

「……えっ、と」 


 恐らく、いや間違いなく自分に話しかけてきているのだと察し、返答に困りきったままゴニョゴニョと口を動かした。


「多分あなた、これから大変になる」

「えっ」


 哀れみや悪意、ましてや愉悦といった感情一切合切を削ぎ落とした声色で、謎の宣言をしてから、岡村さんはやっと僕の目を見た。

 次は何を言われるんだろうと身構えたのに、今のやり取り全部が気のせいだったと、勘違いしそうなくらいあっさりと、謎の言葉だけを残して岡村さんは踵を返し、校舎の奥へと向かってしまった。


「どういうこと……?」


 自分の呟いた声で再びハッとしたと同時に、周囲の音が戻ってきたように感じて、予鈴が鳴っているのに気付き慌てて下駄箱に駆け寄った。せっかくサボりを耐えたというのに、遅刻したら元も子もない。

 焦りながら上履きを取り出そうとした僕は、目の前に広がる光景にたっぷり十秒は固まってから、外履きをその場に脱ぎ捨て、靴下のまま廊下を駆け抜けた。

 口からは多分、意味を成さない滅茶苦茶な叫びが出続けていたと思う。


 死にそうな様子で朝のホームルーム開始と同時に飛び込んで来た僕の、潰れた芋虫がみっしり詰め込まれた上履きを片付けてくれたのは、意外なことに昨日女子のランク付けで盛り上がっていた男子のうちの一人だった。

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隣のクラスの岡村さん 卜森昭弥 @ugetsuaki

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