割に合わない依頼と猫

豚肉の生姜焼きで満たされた胃は、人に心の平穏をもたらす。同時に、強烈な眠気も連れてくるものだ。

ギルド定食を食べ終えたカインとリリアは、再び『木漏れ日の亭』の定位置に戻り、消化活動に専念していた。窓から差し込む日差しは先ほどよりも傾き、酒場全体が気だるい橙色に染まっている。


「……はぁ。満腹ッス」

「ああ。もう今日は何もしたくないな」

「奇遇ッスね。私もッス。指一本動かしたくない」


二人は、もはや会話するのも億劫だと言わんばかりに、テーブルに突っ伏したり、椅子に深くもたれかかったりして、ただただ時間を浪費していた。

しかし、そんな穏やかな時間は、会計という無慈悲な現実によって終わりを告げる。


「マスター、勘定」

「あいよ。エールが四杯と、ギルド定食が二つ。しめて銀貨四枚だ」


銀貨四枚。

その金額を聞いた瞬間、二人の胃の腑に沈んでいたはずの憂鬱が、むくりと鎌首をもたげた。

カインが懐から銀貨を数枚、リリアも渋々数枚、テーブルの上に出す。かき集めた銀貨と銅貨でなんとか支払いを済ませると、二人の全財産は、合わせて銀貨一枚にも満たない、という危機的状況に陥っていた。


「……」

「……」


顔を見合わせる二人。その目は、先ほどの満ち足りた光を完全に失っている。


「カインさん」

「なんだ」

「今日の定食、カインさんが奢ってくれる流れじゃなかったッスか?」

「どの口が言うんだ。俺は『食え』とは言ったが、『奢る』とは一言も言っていない。そもそもお前、俺との賭けに負けた銀貨一枚をまだ根に持ってるだろ」

「当たり前じゃないッスか。あの銀貨があれば、もう一杯『溜息』が飲めたのに」

「結果論だ」


くだらない言い争いをしながらも、二人は理解していた。このままでは、明日の朝食どころか、今夜の寝床代すら危ういということを。

重い、実に重い腰を上げ、二人は再びあの絶望の掲示板――依頼掲示板の前に立った。


「……下水道のネズミ駆除、まだ残ってるッスね」

「誰が好き好んで行くか、あんなとこ」

「ゴブリン退治……これは、あの新人くんたちが狙ってるやつッスね。彼らに譲ってやるのが、先輩の優しさってもんスかね。まあ、面倒だからどっちみちやりませんけど」

「違いない」


臭い、汚い、危険、面倒くさい。そういった依頼を一つずつ指で弾いていく。残った選択肢は、驚くほど少なかった。


「……これ、なんかどうスか?」


リリアが、掲示板の隅に貼られた一枚の羊皮紙を指さした。他の依頼書に比べて、使われている紙質が良く、書かれている文字も妙に達筆だ。


【愛猫『アレクサンダー様』を探しています】

内容:自宅からいなくなった愛猫の捜索。純白の長毛種で、青い瞳が特徴。

依頼主:商業区画 ヴァインベルク商会夫人

推奨ランク:問わず

報酬:銀貨10枚。


「猫探し、か……」

カインは、腕を組んで唸った。

動物相手の依頼は、時として人間相手より厄介なことがある。言葉が通じないのはもちろん、予測不能な行動をとることが多いからだ。しかし。


「銀貨10枚は、悪くないッスよ。たかが猫一匹見つけるだけで銀貨10枚。破格の待遇ッス」

「まあ、そうだな……。依頼主も金持ちみたいだし、ゴブリンのゲロを浴びたり、下水道の汚泥にまみれたりするよりは、遥かにマシか」

「でしょ? たかが猫探しッス。半日で終わらせて、残りの半日は酒を飲むッスよ。今日の負け分、きっちり取り返してやりましょう」


リリアは、すっかりその気になっていた。彼女の頭の中では、可愛い白猫をひょいと捕まえ、貴婦人から感謝と共に銀貨を受け取り、その足で酒場に戻って祝杯をあげている、という完璧な計画が完成しているに違いない。

その根拠のない楽観論に、カインは一抹の不安を覚えたが、他にマシな依頼がないのも事実だった。


「……分かった。それ、受けるか」


二人は依頼書をひっぺがし、ギルドの受付カウンターへと持っていった。



ヴァインベルク商会の屋敷は、商業区画の中でも一際立派な建物だった。鉄の門をくぐり、手入れの行き届いた庭を抜けて玄関の扉を叩くと、メイドに案内されて豪華な応接室に通された。


「まあ、あなたたちがギルドからいらした冒険者の方? 思っていたより……その、普通ですのね」


現れた依頼主、ヴァインベルク夫人は、絹のドレスに身を包み、宝石をちりばめた扇子を優雅に揺らしながら、二人を値踏みするように言った。その言葉には、悪気はないのだろうが、微量の侮蔑が滲んでいる。


「どーも。しがないDランク冒険者のカインとリリアッス」


リリアが、少しだけ棘のある口調で応じた。

夫人は、そんなリリアの態度は気にも留めず、悲しげに眉をひそめてみせる。


「ああ、私のアレクサンダー様……。あの子は、それはそれは気品にあふれた、美しい子ですの。雪のように白い毛並み、サファイアのような青い瞳……。少しだけ、気位が高いところもございますけれど、それがまたあの子の魅力でして……」


夫人の口から語られる『アレクサンダー様』は、まるでどこかの国の王子様のような猫だった。カインとリリアは、ふんふんと適当に相槌を打ちながら、頭の中に純白で優雅な猫の姿を思い描く。


「昨日の昼過ぎ、ほんの少し窓を開けていた隙にいなくなってしまったのです。ああ、今頃どこかで、お腹を空かせて鳴いているのかしら……。どうか、どうか一刻も早く、私のアレクサンダー様を見つけ出してくださいまし!」


夫人の熱弁を聞き終え、二人は屋敷を後にした。手には、夫人が描いたというアレクサンダー様の似顔絵。前衛芸術と見紛うばかりのその絵は、猫というよりは、白い雲か綿菓子に近い何かだった。


「とりあえず、聞き込みからッスね」

「ああ。こんな目立つ猫なら、誰かが見てるだろ」


二人の楽観は、しかし、最初の聞き込み相手によって脆くも崩れ去ることになる。

近所のパン屋の主人に似顔絵(のようなもの)を見せ、白い猫を見なかったか尋ねると、主人は顔を盛大にしかめた。


「ああ、あのヴァインベルクさんちの、性悪猫のことかい? あいつなら、うちの店先で干してた干しブドウを全部ひっくり返していったよ。全く、飼い主に似て気位だけは高いんだから」


次に行った魚屋の大将は、もっとあからさまに嫌悪感を示した。


「白い猫? アレクサンダー? ああ、あの泥棒猫だな! 何度、売り物の魚を盗んでいったと思ってるんだ! 次見つけたら、塩焼きにして食ってやる!」


その後も、聞き込みを続ければ続けるほど、アレクサンダー様の悪行の数々が明らかになっていった。子供を引っ掻いた、洗濯物をズタズタにした、植木鉢を叩き割った……。

彼が街の住人から付けられたあだ名は、「商業区画の白い悪魔」。もはや、ただの猫ではなかった。


「……話が違うッス」

「気品にあふれた、美しい子、だったか?」

「どの口が言うんスかね、あの奥様は」


すっかり陽が傾き始めた頃、二人は捜索に疲れ果て、人気の少ない路地裏の木箱に腰を下ろしていた。半日で終わるはずの依頼は、終わる気配すらない。


「もう帰りたいッス……」

「まだ銀貨三枚しか持ってないんだぞ。帰っても寝る場所もない」

「うっ……現実を突きつけないでほしいッス……」


リリアがうなだれた、その時だった。

カインが、ふと何かの気配を感じて顔を上げた。視線だ。どこかから、見られている。


「……リリア、上」


促されて、リリアがゆっくりと顔を上げる。

見上げた先、薄汚れた建物の屋根の上。夕日を背にして、一つの影が座っていた。

雪のように白い毛並み――今は少し薄汚れている。サファイアのような青い瞳――今は夕日で赤く爛々と輝いている。


「……いた」


アレクサンダー様だった。

しかし、その姿は、夫人が語った気品や優雅さとは程遠い。まるで、この路地裏一帯を縄張りとする王のように、ふてぶてしく、そして威圧的に二人を見下ろしていた。


「……やっと見つけたッスよ、アレクサンダー『様』」


リリアが、安堵と疲労の混じった声で呼びかける。彼女はゆっくりと立ち上がると、できるだけ優しい声色を作って、両手を差し伸べた。


「さあ、おいで。おうちに帰る時間ッスよ。奥様が心配してる」


その言葉に、アレクサンダー様は、ぴくりと耳を動かした。そして、喉の奥で低く唸ると、ゆっくりと口を開き――


「フシャーーーーッ!!」


――猫が出すとは思えないほどの、威嚇の声を張り上げた。全身の毛を逆立て、背を弓なりにしならせるその姿は、まさしく白い悪魔そのものだった。


リリアの、こめかみがひくりと痙攣した。

田舎の神童と呼ばれたプライド。都会で打ち砕かれた自尊心。そして、一日中歩き回った疲労と空腹。それらが混じり合った結果、彼女の中で、何かがぷつりと音を立てて切れた。


「……この、クソ猫が……」


呟きと共に、リリアの指先に、小さな炎が灯る。魔術師が最初に習う、指先ほどの火球を生み出す魔法、『フィンガーフレア』。


「おい、リリア! よせ!」


カインの制止も間に合わない。

リリアは、あくまで脅しのつもりだった。猫の足元の壁にでも当てて、少し驚かせてやろう、と。しかし、彼女は忘れていた。相手はただの猫ではない。商業区画の白い悪魔なのだ。


放たれた小さな火球が、猫の隣の壁に着弾し、ぱちんと小さな音を立てた。

その瞬間、アレクサンダー様の動きが、ぴたりと止まる。

そして次の瞬間、その姿は屋根の上から消えていた。


「え?」


リリアが間抜けな声を上げたのと、頬に熱い衝撃が走ったのは、ほぼ同時だった。


「――ッ!?」


目にもとまらぬ速さで飛びかかってきたアレクサンダー様が、リリアの顔面を前足でひっぱたき、そのままの勢いで彼女の体に飛び乗った。そして、ガリガリガリ!と、猛烈な勢いで爪を研ぎ始めた。


「ぎゃああああ! 私のお下がりの、大事なローブがーッ!」


リリアの悲鳴が、夕暮れの路地裏に木霊する。師匠から譲り受けた、唯一の形見とも言えるローブが、凶悪な猫の爪によって、見るも無残なボロ布へと変わっていく。


「こんのぉぉぉ!」


カインが慌てて駆け寄り、リリアの体から猫を引き剥がそうとする。しかし、アレクサンダー様は驚くほど俊敏で、しがみつく力も強い。カインが手を伸ばせば、その手を引っ掻き、足を出せば、その足に噛みつく。

冒険者になって数年。ゴブリンとも戦った。オークに追いかけられたこともある。だが、これほどまでに厄介な敵は、初めてかもしれなかった。

Dランク冒険者二人が、たかが一匹の猫に、完全に翻弄されていた。


「もうダメ……私の心が折れるッス……」

「諦めるな! もう少しだ!」


壮絶な(そして、ひどく情けない)格闘の末、カインの脳裏に、一つの光明が差した。魚屋の大将の、怒りに満ちた顔がフラッシュバックする。


そうだ、魚だ!


「リリア! そいつを抑えてろ!」

「もう無理ッス! 色々限界ッス!」

「いいから! 猫には魚だろ!」


意味不明な理論を叫びながら、カインは全速力で路地裏を飛び出し、先ほどの魚屋へと走った。なけなしの銅貨をカウンターに叩きつけ、一番匂いの強そうなアジを一本、ひったくるように受け取る。


「ほらよ! アレクサンダー様! こっちだ!」


路地裏に戻ったカインが、アジを高く掲げる。

その瞬間、リリアのローブを攻撃していたアレクサンダー様の動きが、ぴたりと止まった。

その青い瞳が、アジに釘付けになる。さっきまでの殺意に満ちた光はどこへやら、とろりとした、熱っぽい光を宿している。


「……ぐるにゃあ……」


可愛い声で、喉を鳴らした。

そして、今までリリアにしがみついていたのが嘘のように、あっさりとその身を離すと、カインの足元にすり寄ってきた。

カインがアジを地面に置くと、アレクサンダー様は夢中でそれに食らいついた。その隙に、カインは猫の首根っこをひょいと掴み上げる。


こうして、商業区画の白い悪魔は、一本のアジによって、いともたやすく捕獲されたのだった。



「……」

「……」


すっかり日の暮れた『木漏れ日の亭』。

隅のテーブルで、カインとリリアは、黙ってエールを飲んでいた。二人とも、顔や腕に無数の引っ掻き傷を作り、服は泥と猫の毛で汚れ、リリアのローブに至っては、もはや元の形を留めていない。


依頼は、無事に完了した。

アレクサンダー様を屋敷に連れ帰ると、夫人は涙を流して喜び、約束通り銀貨10枚を支払ってくれた。

だが。


「ローブの修繕費に銀貨5枚、魚代に銅貨多数……。結局、手元に残ったのは、二人合わせて銀貨4枚ちょっと、か」

「時給に換算すると、悲しくなるからやめてほしいッス」


リリアが、死んだ魚のような目で呟いた。

半日で終わらせて祝杯をあげる、という当初の計画は、無惨にも破れ去った。手にしたわずかな報酬は、今飲んでいるこの一杯のエールと、明日のパン代くらいにしかならないだろう。


カインは、ジョッキに残ったエールを飲み干すと、天を仰いで深々とため息をついた。


「なあ、リリア」

「なんスか」


「「二度と動物系の依頼は受けない」」


二人の声が、奇跡のようにハモった。

その声は、ひどく疲れきってはいたが、確固たる決意に満ちていた。

こうして、また一つ、冒険者としての賢さを身につけた二人。その代償として、金と、体力と、そしてリリアのローブが失われた。

割に合わない。実に、割に合わない一日だった。

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