才女の憂鬱とギルド定食

荷馬車の暴走騒ぎは、結局、Bランクパーティー『赤き獅子』の面々が鮮やかに解決したらしい。酒場に戻ってきた冒険者たちが、口々にその手際の良さを褒めそやしているのを、カインとリリアは聞き流していた。手柄話は、酒の肴としては二流だ。一流の肴は、他人の失敗談である。


「それにしても、あの『銀の疾風』のリーダー、レオンさん。真っ先に飛び出していった割に、馬に蹴られそうになって腰抜かしてたらしいッスよ」

「マジか。商工会長の娘さんが見てたら、百年の恋も冷めるな」

「見たところ、いなかったみたいスけど。いやー、残念。メシが不味くなるタイプの残念ッス」


リリアが、実に生き生きとした表情でゴシップを語る。彼女の名誉のために言っておくが、別に性格が悪いわけではない。ただ、暇なのだ。有り余る時間と、かつては勉学や魔法の鍛錬に向けられていた知的好奇心が、今や、そうした俗な人間観察に全振りされているに過ぎない。


「おーい、リリア! お前宛に届き物だぞー!」


カウンターの奥から、マスターの野太い声が飛んだ。ひらひらと振られる、一通の封筒。

その瞬間、リリアの顔がぱっと輝いた。さっきまでの、他人の不幸を喜ぶ薄暗い笑みはどこへやら、まるで花が咲いたかのような明るい表情だ。


「! はいッス!」


彼女は弾かれたように立ち上がると、カウンターまで小走りで向かっていく。その足取りの軽やかさは、普段の気だるげな様子からは想像もつかない。


「……珍しいな」


カインは、その背中を見送りながらポツリと呟いた。

彼女が誰かと手紙のやり取りをしているなど、今まで聞いたこともなかった。友人や、昔のパーティー仲間だろうか。いや、それならば、あんなに嬉しそうな顔はしないだろう。もっとこう、面倒くさそうな顔をするはずだ。


「お待たせッス!」


封筒を大事そうに胸に抱え、リリアが席に戻ってきた。頬はほんのり上気し、猫目が嬉しそうに細められている。


「故郷からッスか?」

「まあ、そんなとこッス。ちょっと失礼」


彼女はそう言うと、丁寧に封を切り、折り畳まれた便箋を広げた。その横顔は真剣そのものだ。一文字一文字を、慈しむように目で追っている。きっと、良い知らせが書かれているのだろう。カインはそう思い、自分のジョッキに口をつけた。


――が、その予想は、数分もしないうちにあっさりと裏切られた。


最初は綻んでいたリリアの口元が、読み進めるうちに、徐々に「へ」の字に曲がっていく。輝いていた瞳からは光が消え、代わりに淀んだ何かが渦を巻き始めた。そして、便箋を持つ指先が、微かに、小刻みに震えている。明らかに様子がおかしい。


「……おい、リリア? 大丈夫か?」


カインが声をかけると、リリアはびくりと肩を震わせ、ハッと我に返った。そして、まるで禁制品でも扱うかのように、慌てて便箋を折り畳み、ローブのポケット奥深くへとねじ込んだ。


「な、なんでもないッスよ。ちょっと、目が疲れただけッス。そう、活字離れが長かったから」

「いや、どう見てもそういう感じじゃなかったぞ。お前、今、魂が口から半分くらい出てたぞ」

「出てないッス! 私の魂は、ここに、ちゃんと、あるッス!」


リリアは、自分の胸をバンバンと叩いて力説する。その必死な様子が、逆に怪しさを増幅させていた。

カインは、じっと彼女の顔を見つめる。何か、よほど都合の悪いことでも書かれていたのだろう。だが、それを無理に聞き出すのは野暮というものだ。


「……そうか。なら、いい」

「……」


カインがあっさりと引き下がると、リリアは逆に拍子抜けしたような顔になった。何か言いたげに、しかし何も言えずに口をもごもごとさせている。

気まずい沈黙が、テーブルに落ちた。遠くで聞こえる冒険者たちの喧騒が、やけにうるさい。


「……母から、なんス」


沈黙を破ったのは、リリアだった。ぽつり、と諦めたような声が漏れる。


「手紙?」

「……うん。うちの母、私がこの街で、すごい魔術師として大活躍してるって、信じて疑ってないんスよ」


彼女は、テーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。その指の隙間から、くぐもった声が続く。


「『先日、村に来た行商人の方が、アスティアで活躍する栗毛の若い魔術師の噂をしていました。きっとあなたのことに違いありませんね』……だってさ。そんな噂、あるわけないのに」


行商人が語ったのは、おそらくBランクパーティーに所属する別の魔術師のことだろう。あるいは、ただの世間話に尾ひれがついただけかもしれない。だが、娘の成功を信じる母親にとっては、それが全てリリアのことに聞こえてしまうのだ。


「『村の子供たちは、みんなリリアのようになりたいと言っています。あなたの活躍が、私たちの誇りです』……」


それは、呪いにも似た言葉だった。

故郷の村では、彼女は確かに神童だった。わずか十歳で高位魔法の基礎を理解し、十五になる頃には、村の誰もが彼女の才能を疑わなかった。誰もが言った。「お前は、この村に収まる器じゃない」と。リリア自身も、そう信じていた。自分の才能は、世界に通用するのだと。


だから、村を飛び出した。王都を目指す道中、腕試しと資金稼ぎのために、この中堅都市アスティアに立ち寄った。

そこで、彼女は初めて知ったのだ。世界が、自分の想像よりもずっと広く、そして厳しい場所であることを。


自分よりも若く、才能に溢れた魔術師。血の滲むような努力を重ねてきた秀才たち。生まれ持った魔力量が、そもそも桁違いの天才。そんな連中が、この中堅都市にさえ、ゴロゴロしていた。

村一番の神童は、その他大勢の「そこそこ」の魔術師に成り下がった。プライドは粉々に砕け散り、王都へ向かう気力も、資金も、とうに尽きてしまった。


「『仕送りはまだ大丈夫ですか? 無理はしないでくださいね』……なんて、どの口が言うんスかね。こっちが仕送りしなきゃいけない年齢なのに、逆に心配されてる始末ッスよ……」

「……」

「私、何やってるんスかねぇ……」


リリアの声は、もう震えていなかった。ただ、乾ききっていた。諦めと、自嘲と、ほんの少しの涙が混じった、ひどくかすれた声だった。

カインは、かける言葉が見つからなかった。頑張れ、と言うのは簡単だ。だが、頑張った末にここにいる彼女に、その言葉はあまりに無責任だ。


だから、彼は代わりに席を立った。


「腹、減ってないか?」

「……は?」


顔を覆っていたリリアが、きょとんとした顔でカインを見上げる。その目元は、少しだけ赤かった。


「いや、だから、腹が減ってるから、色々と考えすぎるんだろ。人間、空腹だとろくなことを考えない」

「……何スか、それ。何の脈絡もないッス」

「脈絡なんて、腹が満たされりゃ、後から勝手についてくるもんだ」


カインはそう言うと、リリアの返事も聞かずにカウンターへ向かった。そして、指を二本立てて注文する。


「マスター。ギルド定食、二つ」


今日のギルド定食のメニューは、店の前の黒板に書かれていた。『豚肉とキャベツの生姜焼き、ライス・スープ付き。銀貨1枚』。冒険者向けの、安くて、量が多くて、そして何より、うまい定食だ。


やがて、香ばしい匂いと共に、湯気の立つ二つの皿がテーブルに運ばれてきた。

こんがりと焼かれた豚肉に、甘辛い生姜醤油のタレがたっぷりと絡まっている。その横には、シャキシャキとした歯ごたえが残るように炒められたキャベツ。山盛りの白米に、具沢山の野菜スープ。飾り気はないが、食欲を否応なく刺激する、完璧な布陣だった。


「ほら、食えよ。冷めるぞ」


カインは、自分の席に戻ると、早速フォークを手に取った。

リリアは、目の前の定食と、カインの顔を、しばらく交互に見つめていた。しかし、立ち上る湯気と、生姜醤油の抗いがたい香りに、ついに観念したようだった。


「……別に、お腹なんて空いてなかったんスけど」


そう言いながらも、彼女の手は、素直にフォークを握っている。

一口、タレの絡んだ豚肉を口に運ぶ。咀嚼する。そして、ごくりと飲み込む。


「……」


リリアは何も言わない。

ただ、二口目、三口目と、無心で食べ進めていく。時々、白米を口に運び、スープをすする。その食べるペースは、先ほどの落ち込みようが嘘のように、力強いものだった。

カインも黙って自分の定食を食べ進める。

二人の間に会話はない。ただ、フォークと皿が触れ合う音と、咀嚼音だけが、テーブルの上を支配していた。


やがて、リリアの皿から、最後の米粒が消えた。


「……ぷはぁ」


彼女は、満足げな、それでいて少し間の抜けた息を吐くと、テーブルにごとりとフォークを置いた。その表情は、手紙を読んでいた時のように曇ってもいなければ、ゴシップを語っていた時のように歪んでもいない。ただ、満腹になった生き物の、穏やかな顔をしていた。


「うまいもん食えば、大抵のことはどうでもよくなる」


カインが、スープをすすりながら言った。


「……それ、さっきも聞いたッス」

「だろうな」


リリアは、ふっと、本当に小さな声で笑った。


「まあ……悪くないッスね。ここの生姜焼き」

「だろ?」


故郷からの期待も、都会での挫折も、輝かしいはずだった未来も、今は満たされた胃の腑の底に、静かに沈んでいる。もちろん、問題が解決したわけではない。明日になれば、また同じことで悩むのかもしれない。

けれど、今は、これでいい。

温かい食事と、何も聞かずに隣にいてくれる相手。それだけで、もう少しだけ、大丈夫な気がした。


リリアは、空になったスープ皿を眺めながら、誰にも聞こえないくらいの声で、ぽつりと呟いた。


「……ごちそうさま、でした」


その声は、まだ少しだけ、湿っていた。

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