第4話 閉ざされた心

 グランツさんの邸宅での生活が始まって、一月が経った。

 僕に与えられた部屋は、かつての僕の部屋よりもずっと広くて、立派だった。高価そうな調度品が置かれ、窓からは手入れの行き届いた美しい庭が見下ろせる。何一つ、不自由のない暮らし。

 ただ、そこに『温もり』だけがなかった。

 僕は、ほとんどの時間をこの部屋で過ごした。食事の時間になるとメイドさんが呼びに来て、食事が終わればすぐに部屋に戻る。まるで、ぜんまい仕掛けの人形みたいだ。

 あの日以来、僕は、言葉を失っていた。何かを話そうとしても、喉の奥で声が氷の棘になって、消えてしまう。だから、僕は話すのをやめた。

 夕食の時間、僕は大きなテーブルの末席に座っていた。壁に飾られた、僕の知らない誰かの肖像画に見下ろされている気がした。銀の食器がカチャリと鳴る音が、やけに大きく響く。


「ロノアール君、今日のスープは出来が良い。少しでもいい、食べてみなさい」


 グランツさんが、父親のような優しい声で語りかける。僕は、ただ無言でスープ皿を見つめた。味なんて、わからなかった。


「ロノ兄! あのね、今日ね、お庭で綺麗な虹色のトカゲを見つけたの! すっごく速くて、捕まえられなかったんだけど!」


 僕の隣で、一つ年下のルナが、一生懸命に話しかけてくる。銀色の髪を揺らしながら、身振り手振りを交えて。彼女は、この一月、ずっとこうだった。僕が何の反応も返さないのに、飽きもせずに。

 僕は、彼女の方を見ることなく、スプーンを握りしめた。


「ルナ、無駄よ。彼は石みたいなものなのだから」


 冷たい声が響いた。声の主は、ルナの姉のセレスティア。僕より二つ年上の、人形みたいに整った顔立ちの少女。彼女は、僕を一瞥すると、興味なさそうに自分の食事に視線を戻した。


「そんなことないもん! ロノ兄は、聞いてくれてるもん!」


「セレスティア。あまりそういう言い方をするんじゃない」


 グランツさんが娘を窘める。気まずい沈黙が、テーブルに落ちた。

 僕のせいだ。僕がいるから、この家族の食卓は、こんなにも冷たい。


 ある日の午後、僕は書斎の窓際に立って、外を眺めていた。

 別に景色が見たいわけじゃない。ただ、部屋にいるのが息苦しくなっただけ。


「あ、いた! ロノ兄!」


 背後から、ルナの声がした。彼女は一冊の絵本を抱えて、僕のところに駆け寄ってくる。


「見て見て! これ、お父様に新しく買ってもらったの! すっごく面白いんだよ、一緒に読も!」


 ルナが、僕の服の袖を、ためらいなく掴んだ。

 その瞬間、僕は、思わず彼女の手を振り払ってしまっていた。

 ビクッ、と。ルナの小さな身体が跳ねる。

 彼女は、驚いた顔で僕を見つめていた。その大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。

 違う。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、誰かに触れられたのが、怖かっただけで。ごめん、と。そう言いたかったのに、喉が張り付いて、何の音も出てこなかった。

 泣き出しそうになるルナを見て、僕は、どうすることもできずに、その場から逃げ出した。


 自室の窓から、庭を見下ろす。さっきの書斎での出来事が、頭から離れない。


「いつまでそうしているつもり?」


 不意に、背後から声をかけられた。振り返ると、セレスティアが部屋の入り口に寄りかかって、僕を見ていた。


「父もルナも、あなたに気を使いすぎよ。あなたは人形じゃない。生きているんでしょう?」


 彼女の声には、何の感情もこもっていないように聞こえた。ただ、事実を述べているだけ。


「ルナを泣かせたそうね。あの子、あなたのことを本当に心配して、ずっとあなたの部屋の前をうろついていたのに。……いい気味だわ、少しは学んだでしょう」


 セレスティアの言葉は、氷のナイフみたいに冷たかった。


「悲劇の主人公を気取っているのかもしれないけれど、あなたのその態度は、周りを不幸にするだけよ。……死んでいったご両親も、そんな姿を見たいと、本当に思う?」


「……っ!」


 僕は、初めて彼女を睨みつけた。でも、セレスティアは表情一つ変えない。


「あら、目は死んでいないのね。なら、まだ希望はあるかしら」


 彼女はそれだけ言うと、ため息を一つついて、どこかへ行ってしまった。

 夜、ベッドに潜り込む。

 扉の向こうから、家族の気配がした。ルナを慰めるグランツさんの声。セレスティアが弾く、静かなピアノの音色。

 そこには、僕の知らない、温かい世界が広がっている。

 僕は、その輪の外にいた。一人、冷たい暗闇の中で。空っぽだった。何も感じない。何も、欲しくない。

 ただ、息をしているだけだった。

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