第3話 喪失と約束
彫刻の施された木製の天井は知らない天井だった。
鼻をくすぐるのは、消毒液の匂いではなく、陽の光を吸った清潔なシーツの匂い。遠くから、誰かがピアノを弾いている音が聞こえる。拙いけれど、優しい旋律。
僕はゆっくりと、瞬きを繰り返した。
身体が、鉛のように重い。指一本動かすのも億劫だった。
夢を、見ていた気がする。
とても、とても悪い夢。父さんと母さんが、血に濡れた男たちに……。
――違う。
夢なんかじゃない。
思い出した瞬間、心臓が氷の塊になったみたいに冷たくなった。
僕の上に倒れ込んできた、母さんの生温かい感触。
光が消えた、父さんの虚ろな瞳。
あれは、現実だ。
「……っ」
声を出そうとして、喉がひきつった。息ができない。見えない何かに、首を絞められているみたいだった。身体が震え、シーツを強く握りしめる。
どうして僕は、生きているんだ。
どうして、一人だけ。
ぎい、と。静かに、部屋の扉が開く音がした。
顔を向けると、そこに立っていたのはグランツさんではなかった。僕より少し年下に見える、銀色の髪をした少女だった。小さな花瓶を胸に抱え、そろりそろりと部屋に入ってくる。僕が目を開けていることに気づくと、彼女は「あっ」と小さく声を漏らし、大きな瞳をまん丸に見開いた。
「お、お父様! 彼が、起きたわ!」
少女は慌てた様子で、持っていた花瓶を僕のベッドのサイドテーブルに置くと、ぱたぱたと軽い足音を立てて部屋から駆け出していった。
すぐに、重い足音が近づいてくる。部屋に入ってきたのは、ひどく疲れた顔をしたグランツさんだった。
「……すまない、娘が騒がしくて。目が覚めたか、ロノアール君」
グランツさんは、いつもみたいに『ロノ』とは呼ばなかった。
彼は僕のベッドのそばに椅子を持ってきて、静かに腰を下ろした。
「……気分は、どうだね」
僕は答えなかった。答えられなかった。何を言えばいいのか、わからなかったから。
グランツさんは、僕の沈黙を責めなかった。ただ、悲しそうな目で僕を見つめている。長い、長い沈黙が続いた。遠くで鳴っていたピアノの音も、いつの間にか止んでいた。
「……君のご両親は、最後まで勇敢に戦ったらしい。君を、守るためにな」
グランツさんの、絞り出すような声が、部屋の静寂を破った。
「君のお父上は、誰よりも誇り高く、真の騎士と呼ぶにふさわしい男だった。そして、君のお母上は、誰よりも慈愛に満ちた、素晴らしい女性だった。……彼らのような友を持てたことを、私は、生涯誇りに思う」
やめて。
それ以上は言わないで。
そんな風に、話されると、まるで、二人がもう、この世にいないみたいじゃないか。
「……ロノアール君。これから、君に伝えなければならないことがある。君にとっては、あまりにも酷な話だろう。だが、君はルトクリフ家の……いや、君はもう、当主なのだから」
グランツさんは一度言葉を区切り、意を決したように、続けた。
「ルトクリフ領は、王国法に基づき、王家へ返還されることになった。当主である君がまだ幼く、他に後継者もいない以上、これは、覆せない決定だ」
「……」
「つまり……君は、貴族としての身分と、家名を失うことになる」
言葉の、意味が、わからなかった。
僕が、貴族じゃなくなる? ルトクリフじゃ、なくなる?
じゃあ、僕は、誰になるんだ。
「そして、私が君の後見人になる。君のお父上と、生前、約束していたことだ。万が一のことがあれば、互いの子を守る、と」
グランツさんは、僕の肩に、そっと手を置いた。ごつごつとした、大きな手だった。父さんの手に、少しだけ、似ていた。
「だから、君は、今日から私の家族だ。この家で、私と……私の娘たちと一緒に暮らすことになる」
「……」
「君より二つ年上のセレスティアと、先ほどの、一つ年下のルナだ。……戸惑うだろうが、彼女たちは、君の新しい姉妹になる」
家族。姉妹。
グランツさんが話している言葉は、遠い国の話みたいに聞こえた。
僕にはもう、どこにも未来はない。
父さんも母さんもいない世界で、これからどうやって生きていけばいいのか、わからない。
グランツさんは、立ち上がった。
「今は、何も考えなくていい。今はただ、休みなさい」
そう言って、彼は静かに部屋を出て行った。
一人になった部屋で、僕はサイドテーブルに置かれた小さな花を、ただじっと見つめていた。
涙は、もう出なかった。
僕の世界は、昨日、あの街道で、終わってしまったのだから。
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