第5話 孤独な誓い
季節が、二度巡った。
グランツさんの邸宅に来てから、二年が経ち、僕は十四歳になった。
背は少し伸び、声も変わった。けれど、僕の心は、あの雨の街道に置き去りにされたままだった。
言葉を話すことは、ほとんどない。食事の時に、グランツさんからの問いかけに、小さく頷いたり、首を振ったりするだけ。
ルナは、僕が十三歳になった頃から、以前のように無邪気に話しかけてくることはなくなった。時々、遠くから心配そうに僕を見つめている。その視線に気づくと、僕はいつも目を逸らしてしまっていた。
セレスティアからは、あの氷のナイフのような言葉を聞くことはなくなった。彼女は僕のことなど、もう存在しないものとして扱っているようだった。
僕は、この広くて立派な屋敷ではただの亡霊だった。
その日、僕は無意識に邸宅の隅にある、今はもう使われていない古い訓練場に向いていた。父さんが生きていた頃、グランツさんとよく手合わせをしていた場所だと、いつか聞いたことがあった。
埃っぽい空気の中に、錆びた鉄と、古い木の匂いが混じっている。壁に立てかけられた武具の中に、一本の木剣を見つけた。
僕が昔使っていたものより、ずっと長くて重い。大人のための木剣だ。
それを、そっと手に取った。ずしり、と。木の重みが、僕の腕に沈む。忘れていた感触。
――構えが甘い。腰が浮いているぞ、ロノ。
――剣は、己の大切なものを守る術だ。遊びではない。
突然、父さんの声が、記憶の底から蘇ってきた。
稽古の後、僕の頭を不器用に撫でてくれた、ごつごつとした手のひらの感触。レモネードの、甘酸っぱい味。
温かい光に満ちていた、僕の世界。
そして、思い出す。
獣たちの手で、無残に壊されていく、父さんの姿を。
僕を守るために、その命を散らした、母さんの、最後の温もりを。
何もできなかった自分を。
ただ、隠れて、震えているだけだった。
守る術どころか、僕は、僕自身の命さえ、父さんと母さんに守ってもらっただけ。
無力で、空っぽな、ぜんまい仕掛けの人形。
「……っ」
胸の奥から、熱い何かがこみ上げてくる。
それは、悲しみだけではなかった。もっと黒くて、焼け付くような、醜い感情。
自分自身への、どうしようもない、怒りだった。
その夜、僕は眠れなかった。
屋敷の住人が寝静まったのを確かめても、ベッドから起き上がる気力も湧いてこない。ただ、天井の闇を見つめるだけ。
これから、どうなるんだろう。
一年後には、学園に入学する。そこは、貴族の子弟たちが競い合う場所だ。
この二年、グランツさんの書斎で、僕は魔法に関する書物もいくつか読んだ。そこには、魔力とは体内に流れる、温かい川のようなものだと書かれていた。
けれど、僕がいくら内なる自分に耳を澄ませても、そこに川はなく、ただ乾ききった、ひび割れた大地が広がっているだけだった。
僕には、魔法の才能が決定的に欠けている。
――だったら、これしかない。
父さんが教えてくれた、この剣の道しか、僕には残されていない。
僕は、勢いよくベッドから起き上がった。自分の部屋を抜け出し、昼間見つけた木剣を握りしめる。
向かったのは、庭の隅にある、大きな樫の木の下。月の光も届かない、深い闇に包まれた場所。
僕は、そこで、ゆっくりと木剣を構えた。
記憶の中の父さんの姿を真似て。
二年ぶりの構えは、ひどくぎこちなかった。足が震え、腕が重い。
それでも、僕は、目の前の暗闇を睨みつけた。
ヒュッ、と。
空気を斬る、か細い音。僕が振るった、最初の一振り。
弱々しくて、頼りない。父さんの、岩をも砕くような一振りとは、似ても似つかない。
悔しくて、もう一度振るった。
脳裏に、あの盗賊の頭目の、下卑た笑みが浮かぶ。あの男が、父さんを……!
怒りに任せて、もう一度。
母さんの、白い首筋を流れた、一筋の赤い線を思い出す。あの光景が、僕の心を焼く。
もう一度。
汗が噴き出し、息が上がる。手のひらの皮が擦りむけて、じんじんと痛んだ。腕が、肩が、悲鳴を上げている。
それでも、僕は、ただ無心に木剣を振り続けた。
あの日の無力な自分を、振り払うように。
父さんと母さんを守れなかった、この弱い自分と、決別するために。
――強くなければ、大切なものも守れんぞ。
いつか、僕にも、大切なものができるだろうか。
今の僕には、わからない。
でも、もし、そんな時が来たら。
今度こそ、失わないために。
二度と、後悔しないために。
僕は、強くなる。
闇の中で、僕は静かに誓った。
どれくらい時間が経ったのか。全身の力が抜け、僕はその場に膝をついた。
荒い息を整えながら、ふと、屋敷を見上げる。ほとんどの窓は暗いが、一つだけ、明かりが灯っている部屋があった。
二階の、角部屋。姉の、セレスティアの部屋だ。
その窓のカーテンが、ほんの僅かに、揺れた気がした。
僕は木剣を拾い上げると、足音を殺して自室へと戻った。
この日から、夜の鍛錬は、僕の秘密の日課になった。
誰にも知られることのない、孤独な誓い。
一年後、僕が王立学園の門を叩くまで、一日も欠かすことなく続けた。
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