第2話 惨劇

 王都へ向かう街道を、僕ら家族を乗せた馬車が走っていた。

 父さんの旧友である辺境伯のお屋敷に招かれた、数日がかりの旅路。僕にとっては、自分の領地の外に出る初めての長い旅だった。


「父さん、まだ着かないの?」


「はは、お前は少し落ち着きがないな。まだ半日も走っておらんぞ」


 母さんが差し出してくれたクッキーを、僕は夢中で頬張った。

 優しい母さん、厳しいけど誰より強い父さん。二人がいれば、どこにいたって大丈夫。僕の世界は、こんなにも安全で、温かい。

 だから、僕は気づけなかった。

 僕らの日常を食い破る、獣の牙が、すぐそこまで迫っていることに。


 ガタンッ!


 突如、馬車が大きく揺れて、馬の断末魔のようないななきと共に急停止した。


「どうしたんだ!?」


「止まれ! 止まれと言っている!」


 御者さんの悲鳴に近い声。それをかき消す、男たちの下品な哄笑。

 父さんの表情が、一瞬で僕の知らない、冷たい殺意を宿した騎士のものに変わった。


「あなた……」


「静かに。ロノ、母さんのそばから離れるな」


 父さんは腰の剣を抜き放ち、馬車の扉を蹴破るようにして外へ飛び出した。すぐに、肉を斬り、骨を砕く生々しい音と、獣じみた雄叫びが響き渡る。


「ロノ、こちらへ! いいこと、絶対にここから動いてはだめよ!」


 母さんは僕をきつく抱きしめ、馬車の隅にある荷物の陰に隠してくれた。母さんの身体が、小刻みに震えているのがわかった。

 怖い。何が起きているのかわからない。

 僕は、荷物の隙間から、外の光景を盗み見た。

 そこにいたのは、人ではなかった。人の皮を被った、獣の群れだった。返り血を浴び、ぎらつく目で獲物を品定めする、十数匹の獣。盗賊団だ。


「くそっ、こいつ、手練れだぞ!」


「足だ! 足を狙え!」


 父さんは、たった一人で戦っていた。その剣は、僕が知るどんな時よりも鋭く、速い。けれど、相手は数が多い。一人の足を斬れば、別の男が背後から襲い掛かる。腕を斬れば、横から汚れた鉄の棒が振り下ろされる。

 父さんの動きが、少しずつ鈍くなっていく。左腕から血が流れ、肩で荒い息をしている。

 そして、一瞬の隙だった。

 一人の男が投げた短剣が、父さんの右脚に突き刺さる。


「ぐっ……ぁ……!」


 父さんが、片膝をついた。

 その瞬間を、獣たちが見逃すはずがなかった。一人の男が、大ぶりの斧を父さんの剣を持つ腕に叩きつける。鈍い音と共に、父さんの腕が、ありえない方向に曲がった。


「がああああっ!」


 父さんの絶叫。手から滑り落ちる、愛用の剣。

 僕は、息ができなかった。父さんが、壊されていく。

 盗賊の頭目らしき男が、ゆっくりと父さんの前に歩み寄る。


「たいしたもんだ、騎士様よ。だが、ここまでらしいな」


 男の持つ、錆びた長剣が、無防備な父さんの胸に、ゆっくりと突き立てられた。

 ごぷりと、父さんの口から、赤い泡が溢れる。

 僕を見ていた父さんの瞳から、光が、消えた。


「あ……ああ……」


 母さんの口から、声にならない悲鳴がこぼれる。

 やがて、扉が開け放たれ、父さんの血で濡れた男が、下卑た笑みを浮かべて中に乗り込んできた。


「へへ、当たりだ。上玉の女と、金になりそうなガキがいるぜ」


「やめて……! この子には、手を出さないで……!」


 母さんは、僕の前に両手を広げて立ちはだかった。その小さな背中が、僕には誰よりも大きく見えた。

 男は、そんな母さんを嬲るように、剣の先で彼女の頬に触れた。


「いい女だ。殺すには、ちいと惜しいな。だがまあ、逆らうなら話は別だ」


 振り上げられた刃が、鈍い光を放つ。

 時間が、止まった。

 やめろ。

 母さんに、触るな。

 男の剣が、振り下ろされる。母さんの白い首筋に、一筋の赤い線が走った。

 母さんの身体から力が抜け、僕の上に、ゆっくりと倒れ込んでくる。温かい。生温かい液体が、服を濡らしていく。


 ――次の瞬間、僕の中で何かが、弾けた。

 酷い耳鳴り。視界が白い光に包まれる。身体の内側から、熱い何かが溢れ出してくる感覚。

 僕の喉から、声にならない絶叫が迸った。


 ——気がつくと、僕は馬車の外に倒れていた。

 しとしとと、冷たい雨が頬を濡らしている。

 さっきまでの喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っていた。

 僕は、ゆっくりと身体を起こす。目の前には、何も無かった。

 あれだけいた盗賊たちは、誰一人いない。まるで、最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え失せていた。

 ただ、そこに転がっていたのは。


「……父さん? 母さん……?」


 赤い水たまりの中で、ぴくりとも動かない、二つの身体。

 僕は、這うようにして両親の元へ駆け寄った。父さんの目は、虚ろに空を見つめていた。母さんの身体は、まだ微かに温かい。でも、もう二度と、あの優しい声で僕の名前を呼んでくれることはない。

 雨が強くなる。僕の涙も、雨に混じって流れ落ちていく。

 どれくらい、そうしていただろう。遠くから、誰かが僕を呼ぶ声が聞こえた。


「ロノ! ロノ、無事か!」


 グランツさんだ。

 彼は馬から飛び降りると、目の前の惨状に息を呑み、そして、血と泥の中で呆然と座り込む僕の元へ駆け寄った。


「……ロノ、一体、何が……」


 グランツさんは、僕の肩を掴んで何かを言っている。でも、もう僕の耳には届かない。

 世界から、光と音が消えていく。

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