二本の傘

キートン

雨上がりの嘘

 雨が窓を伝う。彼女はテーブルの向こうで、スプーンを静かにカップに載せた。


「明日は台風が来るらしいわ」


 彼の妻は天気予報を伝える声で、そう言った。私は紅茶を一口含み、僅かに震える手を膝の上で鎮めようとした。彼女が用意してくれたアールグレイは、少し冷めていた。


「そうですね、傘が必要になりそうです」


 私の声音は普段より半音高く響いた。


 テーブルの下で、彼の足がそっと私の足に触れる。一瞬の温もり。すぐに離れるが、その痕が火のように燃えた。


「とっくに君の傘、用意してあるよ」


 彼が言った。声は平静そのものだった。会社の先輩と後輩。自宅での打ち合わせという名目。どれも真実の断片ではあるのだ。ただ、組み合わせ方が致命的に間違っているだけだ。


 妻は穏やかに微笑んで席を立った。「おかわりを持ってくるわ」


 彼女が台所へ消えた瞬間、彼の手が素早く私の指に触れた。氷のようなその手のひらが、まるで何事もなかったようにすぐに引っ込む。


「この間のことを考えていた」


 彼の囁く声は雨音に紛れた。


 私たちは先日、渋谷のビデオボックスで四時間も密着していた。狭い暗室で交わした約束——いつか本当に一緒になろう、というあの言葉が、今や台所でガスコンロをつける音に掻き消される。


 妻が戻ってきた。トレイには新しいポットと、焼きたてのスコーンが載っている。


「あなた、なくしたじゃない。あの黒い傘。だから新しいのを買っておいたの」


 彼女は彼に向かって言い、それから私を見た。


「よかったらお嬢さんにも一本、どうかしら。同じのを買っておいたから」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、クローゼットの方へ歩いていく。雨音が急に大きくなったような気がした。


「ほら、これよ」


 彼女が差し出したのは、先日彼が私と一緒にビデオボックスへ入る時に手にしていたのと全く同じブラックの折り畳み傘だった。私は息を詰まらせた。彼の顔色が一瞬で青ざめるのを視界の隅で捉えた。


「どうしたの? そんな顔して」


 妻はいたって平常に、二本の傘を並べてテーブルに置いた。全く同じメーカー、同じモデル、同じ大きさ。並べると違いが一切ない。


「あ、ありがとうございます」


 私の声は明らかに震えていた。彼は無言で紅茶を飲むふりをしている。


「そういえばきのう、あなたの会社の近くでお嬢さんらしき人を見かけたんだけど」


 妻はスコーンにクロテッドクリームを載せながら、何気なく言った。


「誰かと一緒にビデオボックスに入って行くところだったわ。あれって最近の若い子のデートなのかしら?」


 カップと受け皿がかすかに触れ合う音。彼の手が震えている。私は膝の上で拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込む。


「違うよ、それは……」


 彼の声がかすれる。


「冗談よ」


 妻は突然笑い出した。優しい、気立てのよい妻らしい笑顔だ。


「きのうは一日中、ママとデパートにいたんだから。試食ばかりしてたら、お腹いっぱいになっちゃって」


 ほっとしたというより、かえって底知れぬ恐怖を覚えた。彼は強笑いを一つ漏らした。


「ふふ、そうか……」


 しばしの沈黙。雨だけが降り続く。


「でも、もしやだって話はあるわよね」


 妻はゆっくりと紅茶を一口含んだ。


「例えば、これ」


 彼女はそっとテーブルの上の一本の傘を手に取った。


「見た目は全く同じでも、中身が違うかもしれない」


 そう言うと、彼女は慎重に傘の留め金を外した。


「ほら、やっぱり」


 彼女が差し出した傘の内側には、鮮やかなレッドの口紅がほんの少し、だが明らかに付着していた。私の色だ。先日のビデオボックスで、彼の白いシャツにうつしてしまったあの色だ。


「これは……」


 彼の声は完全に詰まっていた。


 妻はじっとその口紅の跡を見つめ、そっと傘を閉じた。


「雨、そろそろ上がるみたいね」


 彼女は静かにそう言うと、ゆっくりと席を立った。


「この傘、捨てておくわ。誰のものかもわからないんだから」


 彼女は二本の傘を手に、台所へ消えていった。流しの水音が聞こえる。


 私たちはしばらく黙ったままだった。やがて、彼がかすかに私の手に触れた。冷たい、震える指だった。


 窓の外では、確かに雨が小降りになっていた。  









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