第四章 4

桜が舞い散る季節となった。

 蓮花は目を覚ますと、そっと起き上がって服を着た。そしてベッドを抜け出して、表に出た。

 食堂の父の元へ赴くと、引き戸を開ける。

「おはようお父さん」

「よう蓮花。はい、朝ご飯」

「ありがと」

 蓮花は朝食を二人分受け取ると、医院にむかって歩き出した。暖かい季節になって、気持ちも華やいでくる。鼻歌が自然に漏れてきた。

「せんせ、起きて。朝ご飯よ」

 槇を覗き込んで起こすと、顔を洗った。背中で槇が起き上がる気配を感じながら、まだ湯気の上がる朝食を用意する。

「何時だ」

「八時。ほら」

 のろのろとベッドから下りてくる槇を見ながら、くす、と笑う。こんなに朝が弱くて、よく医者なんかやってられるな。

「今日の夜、そっちに行くよ。夕飯一緒に食べよう」

「ほんと? 待ってるね」

 食べながらそんなことを話す。なんてことない、朝の時間。

 蓮花が泊まるようになってから、槇はあの夢を見なくなった。腕のなかに彼女を抱いて眠ると、不思議とよく寝られる。深い、森のなかにいるような安らぎに包まれて、そうして目が覚めるのだ。

 朝食が終わると二人はエレベーターで共に一階まで下り、玄関で別れる。

「じゃ、後で」

「うん、お昼に」

 そうして蓮花は家に戻っていく。

 街から棚橋組のやくざが消えて、我妻組だけとなった。昔気質の古臭いやり方をするやくざだけが生き残るとは皮肉なもんだと、三木が言っていた。

 槇医院は相変わらず中立地帯である。ここにおいては、いかなる暴力もご法度だ。

「出前行ってきまーす」

 蓮花は今日も笑顔で出かけていく。それを送り出して、親爺が呟く。

「食堂の看板娘と医院の奥さんの二刀流ってのも、いいかもねえ」

 槇は変わらず、やくざを相手に違法な処置をし、その代金で金のない人々を診療するというやり方をやっている。もう俺は患者の手を振り払わない。あの日のようには。

 いつものような日々が、また戻ってきていた。

 それでも、槇が蓮花を抱いた夜、まだ癖が抜けなくて帰ろうとする彼女に、槇は手を伸ばす。

「もう行っちゃうのか」

 蓮花が振り向くと、槇は決まり悪そうに言う、

「泊まってけよ」

 それで蓮花は思い出す。

 ああ、そうだった。私、このひとの隣にいてもいいんだった。

「うん」

 蓮花は寝床に潜り込み、彼の腕のなかに入る。

「泊まってく」

 そうして共に眠る。

 彼女が泊まりに来るようになってから、槇はあの夢を見ない。そしてもう、二度と見ることはないだろう。

 そしてまた、朝がやってきて蓮花が彼を起こすのだ。

「おはよ、せんせ。朝ご飯よ」


                              了

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泥中花 青雨 @Blue_Rain

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