第三章 3

その後も金田は、毎日やってきた。

「蓮花さん。明日、暇かなあ」

 そして蓮花に花束を持ってきては、お茶だとかちょっとした昼食や夕食に誘う。蓮花に用事がある時は、決して無理を言わない。

「蓮花さん。散歩に行かねえ?」

「お散歩?」

 ある日、いつものように彼はやってきて、こんな提案をした。

「うん、港まで。車出すからさ」

「港まで車で行ってお散歩するんですか? 変なの」

 蓮花はちょっと笑ったが、その時間はちょうど空いていたので応じることにした。なんといっても相手はやくざだし、断ってなにをされるかわからないからだ。今のところ、金田という男は蓮花に対して紳士的だが、彼女はやくざという人種がどういうものかを熟知している。

 特に、質の悪い棚橋とつるんでいる新興勢力なのである。正体がわからない以上は、従っておいた方がいい。そう思っていた。

 港の見える丘公園までやってくると、金田は蓮花と共にそこを歩いた。

「ああ、春に来りゃよかったなあ。そうすりゃ薔薇が咲いてたのに」

 薔薇園を歩きながら、金田はそんなことを言った。辺りは薔薇の苗が一面に植えられているが、冬の今では咲いていない。

 そこから、海の方まで歩いた。

「寒くねえかな」

「だいじょぶです」

 そうはいっても、真冬の海辺である。風は冷たい。

 港に停泊している船が、あちらに見える。それに目をやりながら、金田は柵にもたれかかってぽつりぽつりと話し始めた。

「俺は、在日三世でね」

 蓮花は彼の横顔に目をやった。その目は、遠くを見ているようでなにも見ていない、透明なものを映し出していた。

「ちいせえ頃から、なにかとそのことで差別されて生きてきた。段々と隠してくようになって、グレてやくざになって、大きな組の若頭にまでなった。やり方を間違ったとは思っちゃいねえ。ただ、時々思うんだ。もっと違う生き方もあったんじゃないかなってね」

「……」

 かもめが一羽、所在なげに飛んでいる。金田は手をこすり合わせて、それに息を吹きかけた。

「ああ、だめだ。寒い寒い。どこか、あったかい場所に入ろう。寒くてかなわん」

「金田さん、見かけによらず寒がりなんですね」

「見かけによらずとはひどいなあ」

 行こう行こう、彼は蓮花と共に、小走りで車のある方へとむかっていった。

 だが、金田はやはりやくざである。

 惚れた女がいてなびかないのを、そのままにして指をくわえて待っているほど甘い男ではなかった。

 彼は手下の信用のおける男に自分の考えを話すと、直ちに動くよう命じた。

 男は、ある日食堂にやってきてこう言った。

「ここのご主人はいるかい」

 ちょうどその時店には蓮花もいて、親爺は料理をしている最中だった。

「へい、私ですが」

「こういうものを、持ってるんだがね」

 男はその書類を、親爺に見せた。彼はそれを手に取ると、じっと見た。そして驚きで顔を上げて、男を見返した。

「あ、あんた、こんなものをどこで」

「この店の権利書がある限り、あんたの店は俺のものだよ。言うことを聞いてもらおうか」

「そ、そんなことを言われても、うちには金なんか」

「金なんかいらねえよ。俺が欲しいのはそこのお嬢さんよ」

「え……?」

 親爺も蓮花も、青くなった。

「金の代わりに、うちの店で働いてもらうよ。それで返してもらえればいいから。早速来てもらおうか」

「ちょ、ちょっと待って。お父さん」

「蓮花」

 蓮花は無理矢理連れて行かれて、男の経営するクラブに連れて行かれた。

「ここで着替えな。靴はこっち。化粧してにこにこ笑って、酒注いでりゃいいから」

 と言われれば、否応もなかった。

 そうして、蓮花は夜、働きに出ることになった。

 六時、槇のところへ夕食を持っていき、帰ってきて支度をして店に出勤していく。下着のような、というよりも、下着を着て接客をして、踵の高い靴を履いて、派手な化粧を施していつも笑って酒を注ぐ。

 帰りはいつも深夜過ぎだった。

「若頭、お言いつけ通りあの店の権利書を盾にあの女をうちの店で働かせてますけど、それでいいんですかい。あの女、毎晩毎晩くたくたになって帰ってますぜ」

「いいんだよ。そうやって毎日毎日考える余裕もなくなって生活に疲れた頃に俺がやってきて、救いの手を差し伸べる。するとコロッといくというわけだ。女心だよ」

「相変わらず、汚い手をお使いになる」

「あまり褒めるなよ」

 そんな会話が交わされているとは露知らず、蓮花は連日出勤し続けた。

 日中は出前をして、夜はクラブに働きに出るのだから、休む暇がない。

 蓮花は見る見るうちに疲れていった。

 親爺は心配して、少し休むように言った。

「お前、出前はいいから寝てな。俺が行ってくるから」

「でも、お父さん道がわかんないでしょ。出前がない時は上でお昼寝してるから、心配しないで」

「そうは言ってもなあ」

 蓮花が休む時間を見計らうかのように、金田がやってきて蓮花を訪ねてくる。彼女が目当てで来てくれているわけだから、蓮花が出ていかないわけにはいかず、蓮花は寝ているところを起こされて応対に行く。彼は一度やってくると、三時間は帰らない。

 そうして好きなだけ飲み食いして蓮花と話して帰っていくのだ。

 気がつくと時刻は夕方、槇に夕食を持って行く時間が近づいている。

「お父さん、私少し上にいるね」

「時間になったら声かけるから、寝てな」

 娘が階段を上がっていく足音を、親爺は心配そうな顔で厨房から見上げていた。

 今日も、蓮花はふらふらとクラブに出勤していった。薄着で接客するから身体が冷えるし、足や胸も嫌というほど触られる。それを嫌がっているようでは、仕事にならない。

 笑顔でいなければいけないし、勧められれば強くもない酒も飲まなければならない。

 朝起きるのが辛くなって、どんどん身体がだるくなっていった。

 ああ、足が重い。身体も、岩みたい。眠い。もっと寝たい。でも、出前行かなくちゃ。

 この店には私以外、働き手はいないんだし。でも眠たい。ああ、横になりたいなあ。

 それでも、笑っていようと心がけた。笑ってさえいれば、辛いことは忘れていられる。

 そう思った。

 だが自分の心に嘘をつけばつくほど綻びは大きくなっていって、蓮花は少しずつ荒れていった。

 顔つきが日を追うごとに、険しくなっていく。アイラインを引こうと鏡を見ていると、自分はこんな顔をしていたっけと思うことがある。

 以前はなんでもないことで喜び、嬉しくなっていたというのに、今ではそれが下らなく思えてくる。小さな子供が走っているのがかわいい、妊婦が歩いているのが微笑ましいと思えなくなった。

 彼らのことなど、はっきり言ってどうでもいい。どいて。通行の邪魔よ。

「先生、お昼よ」

 ある日の昼のことである。ふらふらになりながらも、槇に昼食を持って行った時のことだった。

 彼はちょうど診察室にいて診察を終えたところで、患者を帰したところだったので、蓮花と共に三階に行こうとエレベーターに一緒に乗った。

 それで、至近距離で彼女の顔を見ることになった。

「……」

 じっと見つめられて、気まずい思いを悟られぬよう、視線を泳がせながら必死に目を合わせまいとする。

「ここに置いとくね」

 いつもなら自分が食べ終わるのを待っているというのに今日は帰ろうとする蓮花に、槇は不審に思った。

「蓮花」

 階段を下りていこうとする彼女の腕を掴んで、槇は言った。

「どうしてそんなに肌が荒れてる」

「別に。先生の気のせいよ」

「見せろ」

「気のせいだってば」

 連日連夜、ろくに眠らずに濃い化粧をして深夜まで働き、酒を飲む生活をしていれば、肌荒れがするのは当然のことである。

 以前の蓮花は化粧っ気などなく、陶磁器のようなすべらかな肌をしていて、槇はそれに指を這わせるのが好きだった。

「こっちに来なさい」

「きゃっ」

 槇は蓮花を無理矢理抱き上げると、ベッドに押し倒した。

「やっぱり肌が荒れてる」

 そしてその顔に手を置くと、じっと見た。

「――」

「それに、呼気も酒臭いぞ。昨日飲んだな」

 それで蓮花は見透かされたような気になって、慌てて起き上がった。

「な、なによ。私だってもう大人なんだから、お酒くらい飲むわよ。どいて」

 そうして槇の身体を押し退けると、蓮花はこれ以上ここにいてボロが出ないようにしようと、早々に退散することにした。いけない。知られてはいけない。あんな格好で仕事してるなんて、先生に知られたくない。だめ。絶対にだめ。

「蓮花」

 槇の声を背中で聞いて、蓮花は階段を駆け下りていった。

 その日蓮花が食事を持ってこなかったので、槇は食堂に赴いた。蓮花は既に、出かけた後だった。

「親爺さん、オムライスね」

 親爺は黙って料理を始めた。おや、槇は不思議に思う。いつもなら、いらっしゃい先生、だとか、はいよ、だとか、なにか応対の声があるというのに。

 それに、この時間に蓮花がいないというのも変だ。出前はもっと、ずっと後のはずだ。

「親爺さん」

 槇は背中を向けて料理をする親爺にむかって、何気なく声をかけた。

「なんか、あったの」

 振り向いてオムライスを皿に盛った親爺は、皿をカウンターに置くと言いにくそうに口を開いた。

「蓮花には、先生には言ってくれるなって口止めされたんだけど」

 その深刻な顔つきに、思わず食べる手が止まった。

「実は……」

 親爺から事情を聞かされて、槇は立ち上がった。

「なんでもっと早く言ってくれなかったの」

「蓮花が、先生に迷惑かけたくないって。うちの事情だからって」

「そりゃそうだけど」

「それに、権利書を買い取るには相当な金がいるんだよ。いくら先生でも、そんなまとまった金額を用意するなんて、できないだろ。無理だよ」

「……」

 正論を突きつけられて、言葉が出なかった。

「いくらだ」

 腹立たしげに、槇は言った。

「えっ」

「いくらなんだ。権利書ってのは」

「五千万」

 思わず顔をなでる。そんな金額は、全身をひっくり返して搾り出しても出せるものではない。

「相手は、いつまででも待ってくれるって言ってくれるんだ。こうするより他にないんだよ」

 槇は食べることも忘れて、ずるずるとそこに座り込んだ。

 蓮花の、あの疲れ果てた顔、目の下にうっすらと浮いた隈、荒れた唇、濁った目を思い出すにつれ、彼女の荒んだ生活を思った。

 あんな細い身体で、毎日昼も夜も寝ないで働いて、五千万だと。

 そんな生活がいつまでも続くはずがない。死んじまう。

 槇は立ち上がると、ふらふらと食堂を出ていった。食欲など、どこかにいってしまっていた。

 医院に戻って、自分の預金通帳を見た。だめだ。ふだん診察料なんて気にしない診察をしているから、預金なんてゼロに等しい。あっても、とても五千万になんて届かない。

 ふつうの医者ならば銀行も貸してくれるかもしれないが、生憎自分はふつうの医者ではない。

「くそっ」

 腹が立ってきて、机の上のものを手で振り払った。

 医療機器を売るのはどうだろう。いや、それはだめだ。そんなことをしたら、今後の診療に支障が出る。じゃあどうすればいいんだ。

 いらいらと診察室のなかを歩き回って、金目のものがないかと探し歩いた。

 最新の医療機器だけでも、売ることはできないか。小さいものであれば、いい値段がするはずだ。それらのものは、みなあの極道たちを診た金で買い集めたものだ。

 待てよ。

 はたと思いついて、立ち止まる。

「極道……?」

 その手があった。

 槇は医院を飛び出して、我妻組の縄張りへと走り出した。もう時間は八時を回っていたから、やくざ者たちはあちこちを歩き回っていた。

「おい」

 彼はその辺にたむろしていたチンピラに声をかけると、近寄っていった。声をかけられた方はそんな不届きなことをする輩はどこのどいつだと息巻いて振り返ったものの、相手が槇と見るや、

「こ、これは槇先生」

「ごきげんいかがで」

 と頭を下げて寄越した。この辺の者たちで槇の顔を知らないやくざ者など、いなかった。

 槇はつかつかとその男の側に歩み寄ると、胸倉を鷲掴みにして迫った。

「お前らの親分のとこに、連れていけ」

「あっひいいっ」

「お、俺たちみたいな下っ端は、そんな大それた場所は知らねえんで」

「なにっ」

「だいたいお偉いお人たちしか、知らされてねえんで。小頭とか、若頭とか」

「んじゃそいつらのとこに連れてけ」

「む、無理でさあ。俺たちにとっては雲の上のお人ですから」

「じゃあお前の兄貴分のとこに案内しろ。今すぐだ」

「へ、そ、それなら」

 男たちはへどもどと槇を兄貴分のいる場所まで案内すると、どこかへ消えていった。

「槇先生、どうしました」

「お前より偉い人間に会わせろ」

「そりゃまた一体どうして」

「どうしてもだ」

 有無を言わせぬ槇の口調に首を傾げながらも、その兄貴分は素直にそれに従った。

 他ならぬ、槇の言うことだからである。

 そうしてまたその男より偉い男に会うと、それよりも偉い人間に会わせろと言っていった。

 そして、若頭にまで行きついたのである。

「これはこれは槇先生。今日は一体どういったご用件ですかな」

「あんたの親分さんのとこに、連れて行ってくれ。後生だ」

「――」

 若頭はちょっと驚いた顔をして、槇の顔を凝視した。

 血走った目でこちらを見る、その必死さに、彼はなにかを感じ取った。

「……いいでしょう」

 若頭は脇にいる手下におい、と言うと、

「わかっていただけるとは思いますが、目隠しはしてもらいますよ」

「目隠しでもなんでもする」

 手下の者が支度ができたと言ってきた。

「行きましょう」

 若頭は立ち上がると、槇と一緒に歩き出した。

 そして彼を車に乗せると、目隠しをして車を出した。

 邸宅に到着すると、若頭はあの部屋に槇を通した。

「親父、槇先生がお見えです」

 事前に連絡でもしていたのか、なかからはあっさりと返事があった。

 若頭が襖を開けると、重蔵が大きな椅子に座っていた。

「先生、よく来てくれたな」

「親分さん、夜分に突然失礼します」

「先生のおかげで、経過は良好だ。拒否反応もない」

「そうですか。それはよかった」

 それに関してはまったく興味がないとでも言いたげに返事をすると、槇は切り込むように言った。

「今日お伺いしたのは、お願いがあってのことなんです。親分さんにしかできないことです」

「ほう、俺にしかできないことね」

 重蔵は両手の指と指を組んで、槇を見た。

 槇は言った。

「以前私が執刀した際の手術費を、一括で支払っていただきたい」

 側にいた若頭が、思わず重蔵の顔を仰ぎ見た。

 ふだんならそれは、分割払いでされていることである。料金が高額だからだ。

 重蔵は顔色を少しも変えず、鋭い目で言った。

「そりゃまたどうして」

「私用です。多くは、聞かないでいただきたい」

「私用ね」

 重蔵は組んでいた両手をほどいて、立ち上がった。そして窓の近くまで歩いていくと、庭へと目をやった。日中なら見事な日本庭園が見えているはずだか、今では池の水の音がわずかに聞こえてくるのみである。

「先生、いきなり押しかけてきて私用で大金を都合しろなんて随分虫のいい話だとは思わないかね」

「無理は、承知の上です」

「極道に無理をしろとはいい度胸をしていなさる。せめて理由をお聞かせ願おうじゃあないか」

「……」

 槇が押し黙ってしまったので、重蔵は振り返って強い声で言った。

「先生。やくざはね、金の成る木じゃないんですわ。金を出せはいそうですかとポンと出せるようなら、こっちだって苦労はせんのです」

「……の」

「うん?」

「好きな女の、ためです」

 唸るような、搾り出すような槇の低い声に、重蔵は目を瞠った。

 そして目の前に立つ、自分よりもずっと若い男をしげしげと見つめた。

 重蔵は腹の底から響き渡るような大声で笑い出すと、愉快そうに喉を鳴らした。

 笑い声は、しばらく部屋に響き渡っていた。

 笑い終えると彼は、腹を揺らして槇に言った。

「いいでしょう。一両日中に用意しましょう。準備ができ次第、この男に運ばせます。

 おい、聞いたな」

「はい、確かに」

「そういうことで、この話は終わりということにしましょう。おい、先生のお帰りだ」

 重蔵が目で合図すると、若頭が槇の前に立って、また案内し始めた。

 車で送られて医院まで行き、三階の自分の部屋に辿り着いて、初めて深い深いため息が漏れた。

 よかった。殺されるかと思った。

 それに、なんとか金が工面できた。

 それからは、ほとんど眠ることもできずに朝を迎えた。

 患者の数もまばらで、それだけが救いだった。

 二日後の夕方、あの若頭が大きな鞄を二つ、持ってきた。

「耳を揃えてお支払いいたします」

「無理を言って申し訳ないと、親分さんに重々お伝えください。またお礼は今度」

「いえ、それには及びません」

 そう言うと、若頭は帰っていった。

 槇はその鞄を持って、急いで食堂へ向かった。

「親爺さん、蓮花は?」

「あ、先生。今日はもう出勤しちまったよ」

「遅かったか」

 槇は唇を噛んだ。

「店の場所は?」

「場外馬券場の近くの、『ノワール』ってとこ」

「ありがと」

「あ、先生、夕飯は?」

 槇は大通りに出ると、タクシーを拾った。そして親爺に言われた場所を告げると、そこまで飛んでいきたい気持ちを抑えて、鞄を抱きしめるようにして後部座席に身を沈めていた。

 その頃蓮花は、膝丈までのピンクと白のキャミソールを着て踵の高い靴を履き、髪をくるくると巻いて、思い切り濃い化粧をしてクラブの席についていた。

 最近では、もう考える余裕すらなくなってきていた。頭の芯が痺れるようにだるくて、自分が自分でないような、まるで金魚鉢のなかにいるもう一人の自分を眺めているような重だるい気持ちになって、なにもかもがどうでもよくなってくる。

 貼りついたような偽物の笑顔を作ることも、不自然とは思わなくなってきた。

 客が太腿に手を置いて、すりすりとなでてくる。

「なあ、いい加減いいじゃない。もう俺、皆勤賞だよ」

「だめだよなに言ってんの」

 手がどんどん上に来ようとするので、それを留めようと手で止める。

「君に会うために、いくら遣ったと思ってんの。そろそろ元取らせてよ」

 蓮花の手を払いのけて、手がまた上がってくる。ああ、もうどうでもいい。私なんか、どうでもいい。どうせ、どうせ私なんか。熱い手が這い寄ってくる。

「ん? なんだ」

 客の手が止まり、その顔が入り口に向けられた。従業員がしきりに困ります、お帰りくださいと制止する声が聞こえてくる。それに逆らって、責任者を呼べ、という声も聞こえてきた。

 蓮花の靄のかかった頭に、その声が突如として響いた。

 あれ? この声どこかで

「蓮花、どこだ」

「先生?」

 蓮花は思わず声を上げていた。同時に、今の自分の姿にも気がついた。だめだめ、こんなかっこ、見られたくない。こんなとこ、先生に見られたくないのに。

「お客様、困りますな」

 奥から、男が出てきてにやにやと笑いながら言った。

「この店の女の子に用があるのでしたら、穏やかな方法でいらしてください」

「蓮花、荷物を持ってこい。帰るぞ」

「えっ?」

「いいから、早く」

「どういうことですかな」

 槇に言われて、蓮花が裏に行った。男の顔から笑みが消えて、槇の前に立ちはだかった。

「あんたがここの責任者か。あの子は俺と帰る。ここでの仕事も、今日までだ」

「そうはいかない。あの女の父親の店の権利書を買い取ると、父親が約束したんだ。その金を、あの女がここで働いて返すと」

「それを今、俺がここで払う」

「なんだと」

「権利書を出せ。金を持ってきた」

 男の顎が、ぶるぶると震えた。

「金を、見せろ」

「権利書を持ってこい」

 蓮花が荷物を抱えて戻ってきた。男は側にいた者におい、と言うと、その間槇と睨み合っていた。

 権利書が持って来られると、男は近くのテーブルの上にそれを置いた。

「蓮花、それを取れ」

 蓮花はテーブルの上に置かれた権利書を手に取った。

「店の権利書で、間違いないか」

「……うん」

 槇はそれを聞くと、同じテーブルの上に鞄を二つ置いた。

「代金だ。これでこの子を解放しろ」

 言うと、槇は着ていたコートを下着姿の蓮花に羽織らせてその手を引いた。

「行こう」

 そして通りに出ると、待たせていたタクシーに飛び乗った。

 車のなかで、槇は無言だった。窓の外に目をやって、ただただ黙っていた。

 蓮花は、あられもない姿で働いていたところを見られた恥ずかしさと、秘密にしていたことを知られたという罪悪感と、それから下着姿のままであるという寒さから、震えていた。

「……先生、怒ってる?」

 窓に映った槇にむかって、ぽつりと尋ねる。彼はむすっとした表情で、こう答えた。

「ああ」

 それから蓮花の方を振り向いて、ため息混じりで言った。

「俺に黙ってするなよ、こういうことを」

「だって、迷惑かけちゃうと思って。うちのことだし」

「そんな他人行儀な関係じゃないだろ」

「だって」

 だって、恋人じゃないし。

 その言葉を、飲み込んだ。

 

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