第三章 4
2
「蓮花さん、親父さんから聞いたんだけど、店が大変だったんだって」
金田に言われて、ぼーっとしていた蓮花ははっとなった。
「え、ええ」
「俺に言ってくれれば、いくらでも協力したのに」
「そんなことできません」
そもそもの発端を作った張本人なのに、いけしゃあしゃあと金田は言った。
「なんか、誰かが店に金を持ってきたんだって聞いたけど」
それは、手下のあの男から聞いた話である。
「ええ、お父さんが昔手術してもらった、槇医院の先生です」
「槇医院?」
「知らないですか? 西でも東でもない、街の中立地帯の医院です。そこのお医者さんです」
「ふうん……医者、ねえ」
それで金田は気になって、手下を階段から突き落としてわざと怪我をさせてその医院に行かせてみた。
その手下の兄貴分のふりをして医院に行くと、その医者というのは金田よりはだいぶ背の高い、二重のまぶたもくっきりの、切れ長の目元がきりりとした出で立ちであったので、金田はそれが大いに気に入らず、その丁寧な診察ぶりにも気を悪くして、哀れな子分の頭をはたくなどして八つ当たりをしていた。
次に蓮花と出かけた時、金田は彼女に言った。
「槇って医者、冴えない男だね。ぼーっとしてるっていうか」
すると、蓮花は吃となって金田に言い返した。
「そんなことありません。患者さんのことはいつもすごく考えてるし、お金だって取ることの方が少ないし、闇医者だって本人は言うけどすごくいいひとなんです。ちょっとしか先生のこと知らないのに、馬鹿にしないで」
蓮花のあまりの剣幕に、金田はたじたじとなって、
「そ、そうかい。そりゃ悪かった。ごめんよ」
と言うしかなかった。それで思った。
けっ、なんでい。気に入らねえ。
金田は、やくざである。基本、考えることが物騒だ。
惚れた女が気にかける男がいると知れば、その男がいなければいいと思う。
思考が短絡的であるから、実行に移すのも早かった。
手下にあることを命じると、じっと時機を待った。
それには、時間がかかった。
槇は基本的に診察室と居室の往復しか生活のなかですることがなく、診察室と居室は医院のなかにあって、行動が完結しているからである。
よって、槇が外出するということは滅多になく、チャンスはなかなか訪れなかった。
だが、手下は実に辛抱強く、執念深く待ち続けた。
そしてある十二月の終わりの日の夕方に、槇が医院を出ていくのを確認したのである。
「出てきたぞ。やるか」
「待て。まだだ。暗くなってからを待て」
そこで槇の後を尾けていくと、どうやらあの食堂にむかった様子である。
彼は小一時間もすると出てきて、背を屈めながらポケットに手を突っ込んで医院に向かって歩き始めた。
「よし、行け」
手下の運転する車が、槇に目がけて猛突進した。
「ん?」
自分を照らすまぶしいライトに目を細めて――
槇が救急車で運ばれた、轢き逃げに遭ったらしいと聞いて、蓮花は血相を変えて病院に駆けつけた。
救急の受付を通って行くと、ちょうど槇が診察室から出てくるのが見えた。
「先生」
槇は左手に包帯を巻き、頬に白い大判の絆創膏を貼られていた。
「蓮花」
「大丈夫? 怪我したの」
「咄嗟によけたんだけど、転んじゃって。打ち身ですんだよ。轢こうとした車のナンバーは、わからなかったんだけど」
「痛い?」
左手をさする蓮花を見て、槇の口元が緩んだ。
「痛くないよ」
その笑みを見て、蓮花が今まで押し殺していたものが一気に流れ出した。
「う……」
その大きな瞳には涙が見る見るあふれ出し、やがてその涙が流れると、蓮花は声を上げて泣き出した。
「おいおい蓮花」
廊下を行く看護師や他の患者が、何事かとこちらをじろじろと見ている。
「蓮花」
蓮花は目を押さえて、わんわん泣き続けている。槇は困り果てて、廊下の隅に彼女を連れて行った。そして蓮花と並んで座ると、しばらくそうしていた。
かなりの長い間泣いた後、ようやく蓮花が泣き終わると、槇はポケットからハンカチを出して彼女に差し出した。
「気がすんだか」
「うん」
「あんまり泣くなよ。びっくりするじゃないか」
「だって」
「だって?」
「先生が、死んじゃったらどうしようって思ったら、悲しくて悲しくて、それで」
「泣いちゃったのか」
「うん」
「よしよし」
槇は蓮花の頭に手を置くと、
「俺はそう簡単には死なんよ。あの街のひとたちが俺のことを頼りにしてる限りはな」
蓮花は槇のハンカチで目尻を拭うと、彼を見上げた。
「ほんと?」
「ほんと」
彼は立ち上がると、蓮花に言った。
「さあ帰ろう。親父さんが心配してるぞ」
蓮花はまだ涙の痕が残る目で彼を見ると、立ち上がって言った。
「せんせ、明日の朝ご飯、なにがいい?」
「そうだなあ、まだ朝寒いから、汁物がいいなあ」
「じゃあお父さんにそう言っておくね」
二人はそう言い合いながら、病院を出ていった。
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