第24話



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**『京都祇󠄀園四条大橋心中』より**


**作者:志乃原 七海**


「……あんただれね?」


女のねっとりとした声が、ゴミの匂いが充満する部屋に響く。

その言葉は、まるで冷たいヘドロのように田中の足元に絡みつき、彼の冷静さを根こそぎ奪っていった。今まで教師という職務に守られ、かろうじて保っていた理性の仮面が、音を立てて砕け散る。


田中は、震える拳を固く握りしめた。


「この子の…菜々美さんの中学校の担任教師です!」


絞り出した声は、自分でも驚くほど上擦っていた。それでも、彼は叫ばずにはいられなかった。この地獄のような空間で、自分の存在を、正義を、必死に証明しようとするかのように。


「田中和夫と、言います!」


名乗ったところで、何になるというのか。

目の前の女、和子は、その名前を聞いても眉一つ動かさない。ただ、面白がるように唇の片端を吊り上げ、品定めするような視線を投げかけるだけだ。その態度が、田中の心の最後の堰を切った。


もう、駄目だった。

教師としてではない。社会人としてでもない。

ただ、人間として、目の前の光景が許せなかった。


「もう……我慢出来ん!」


喉から絞り出されたのは、嗚咽にも似た叫びだった。


「あんた! 親かーっ!!」


それは、問いかけではなかった。

こんな惨状を作り出しておきながら、母親を名乗る資格があるのかという、魂からの弾劾。

田中は、和子を睨みつけた。その視線は、憎しみと、どうしようもない哀れみが混じり合った、熱い炎を宿していた。


その炎を真正面から受け止めても、和子は涼しい顔をしていた。

ふん、と鼻で笑うと、壁から身体を離し、気だるそうに髪をかきあげる。


「親やけど? それが、どないしたん」


まるで他人事のように、あっけらかんと言い放った。

その言葉に、田中は全身の血が逆流するような感覚を覚えた。この女には、何も通じない。常識も、倫理も、親子の情愛さえも、この淀んだ空気の中に溶けて消えてしまったのだ。


絶望が、田中の心を黒く塗りつ潰そうとした、その時だった。


うずくまっていた菜々美が、ゆっくりと顔を上げた。

その小さな瞳が、初めて母親ではなく、自分のために怒りを爆発させてくれた男の、広い背中をじっと見つめていた。


床に落ちた、食べかけの鶏肉の骨。

それを貪っていた自分の惨めな姿。

そして今、自分を庇うように立つ、大きな背中。


菜々美の心の中で、冷たく凍りついていた何かが、ポロリと音を立てて剥がれ落ちた。

それは、誰にも助けてもらえないという諦め。

それは、たった一人で生きていかなければならないという覚悟。


その代わりに、今まで知らなかった、熱くて、少しだけ痛いような感情が、小さな泉のように湧き上がってくるのを、少女は感じていた。


この日、この瞬間、十五歳の少女の心に、田中和夫という男の存在が、消えない烙印のように深く、深く刻みつけられたのである。

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