第22話



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**『京都祇󠄀園四条大橋心中』より**


**作者:志乃原 七海**


何度チャイムを鳴らしても、返事はない。

年明けの冷たい風が、古いアパートの廊下を吹き抜けていく。田中和夫は、かじかむ手をこすり合わせながら、錆びついた鉄のドアをもう一度見つめた。佐藤菜々美が学校に来なくなって、もう二週間が経とうとしている。


冬休みが明けても、彼女の席は空いたままだった。

まさか、あの時の誓いを――。

胸に込み上げる不吉な予感を振り払うように、田中はドアノブに手をかけた。すると、あっけないほど簡単に、鍵のかかっていないドアが軋んだ音を立てて開いた。


「…佐藤、いるのか」


声を潜めて呼びかける。

シンと静まり返った部屋の奥から、カサリ、と微かな物音が聞こえた。

靴を脱ぎ、恐る恐る中へ足を踏み入れる。玄関には脱ぎ散らかされた靴と、コンビニの袋が散乱し、アンモニアとアルコールが混じったような、むっとする匂いが鼻をついた。


その匂いの先、薄暗い台所の隅に、小さな人影がうずくまっていた。

「佐藤…?」

田中が近づくと、少女はびくりと肩を震わせ、闇に溶け込むように身を縮こまらせる。それが菜々美だとわかった瞬間、田中は言葉を失った。


彼女は、ゴミ袋に手を突っ込んでいた。

そして、その中から取り出した何かを、一心不乱に口へ運んでいる。

白い脂がこびりついた、茶色い骨付きの肉。クリスマスの夜にでも売られていたであろう、見るも無残な鶏肉の残骸。


その光景が、まるで時間の止まった一枚の絵のように、田中の目に焼き付いた。

飢え、という言葉ではあまりにも生ぬるい、生きるための執着。人間の尊厳が、音を立てて崩れ落ちていく様を、彼はただ茫然と見ていることしかできなかった。


その時だった。

奥の部屋の襖が乱暴に開けられ、寝間着姿のままの母親が、けだるそうな顔で現れた。崩れた化粧、虚ろな目。部屋に漂う淀んだ空気は、この女から発せられているのだと直感した。


母親は、部屋に田中がいることなどまるで意に介さず、ゴミを漁る娘の姿を蔑むように見下ろした。その唇が、歪む。


「……やめんかいね!」


絹を引き裂くような、甲高い声だった。

愛情のかけらも滲まない、ただ汚物でも見るかのような響き。


「みっともない!あんたみたいなのが、犬みたいに残飯漁っとるから!いつまで経ってもウチは惨めなんよ!」


罵声が、鞭のように菜々美の小さな背中を打つ。

菜々美は、鶏肉を口にしたまま、ゆっくりと顔を上げた。その虚ろな瞳が、初めて田中の姿を捉える。唇の端についた、白く固まった脂が、痛々しいほどに生々しい。


その瞳と目が合った瞬間、田中の中で何かがぷつりと切れた。

怒り、という単純な感情ではなかった。もっと深く、冷たい、どうしようもない衝動。目の前の少女を、この女から、この地獄から、どんな手を使っても引き剥がさなければならない。


それは教師としての使命感ではなかった。

ただ一人の人間として、抗うことのできない、運命の始まりだった。


この日、この瞬間から、田中和夫の人生は、静かに、そして確実に取り返しのつかない場所へと滑り落ちていったのである。

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