第20話
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### 「京都祇園心中」 エピローグ
襖が勢いよく開け放たれた瞬間、部屋に雪崩れ込んできたのは、お茶屋の者たちではなかった。
息を潜めて待ち構えていたかのように現れたのは、この界隈を仕切る筋の、黒いスーツを着た男たちだった。
「何事や」
おかみの鋭い声も、彼らの前では意味をなさない。男たちは、部屋の惨状を一瞥すると、手慣れた様子で事を収めにかかった。一人が佐知子から音もなくナイフを取り上げ、もう一人が血で汚れた畳を手早く巻き取っていく。まるで、最初からこうなることが分かっていたかのように。
「……旦那はんの、差し金か」
菊乃が、唇を震わせながら呟いた。
佐知子には、祇園で最も力を持つと言われるパトロンがついていた。この騒ぎは、すべてその男の耳に入っていたのだ。
男たちの一人が、血を流して倒れる和夫に近づき、その体を無造作に担ぎ上げた。
「待って! どこへ連れて行くん!」
菊乃が叫ぶが、男は答えず、ただ冷たく言い放った。
「この男は、うちで預かる。あんたらは、早う、ここから消えぇ」
その言葉は、脅迫だった。これ以上関われば、お前も同じ目に遭うぞ、という。
和夫は、なすすべもなく、男たちに連れられていく。意識が朦朧とする中、彼は最後に、部屋の隅で震える佐知子を見た。彼女は、ただ呆然と、その光景を見つめているだけだった。
*――これで、よかったのかもしれない。あいつは、守られたのだから……。*
それが、和夫が祇園で見た、最後の光景だった。
***
それから、どれほどの時間が経ったのか。
夜明け前の白々とした空の下、菊乃は、一人の男の肩を貸しながら、鴨川のほとりを歩いていた。男の腹には、応急処置で巻かれた分厚い包帯が痛々しく、そのシャツを赤黒く染めている。和夫だった。
結局、和夫は祇園の「掟」に従い、街の外れに捨てられた。命だけは助けられたが、それは「二度とこの街の敷居を跨ぐな」という、無言の警告だった。菊乃が、それを探し出したのだ。
「……菊乃」
「喋んな。傷が開く」
「なぜ、助けた……。俺は、もう……」
「阿呆なこと言うな。あんたは、生きるんや。あんな娘のために、死んでたまるか」
菊乃は、歯を食いしばりながら、和夫の重い体を支える。ゆっくり、ゆっくりと、まるで傷ついた獣のように、二人は歩いていく。朝日が昇れば、京都駅へ向かおう。そして、この呪われた街から、二人で逃げるのだ。
どこへ行く当てもない。金も、仕事も、未来もない。
だが、それでも良かった。この男の隣で、ボロボロになった互いの体を寄せ合いながら生きていけるのなら、それもまた、一つの人生だと思えた。
その時だった。
背後から、コツ、コツ、と、石畳を叩く、軽い足音が聞こえた。
二人が振り返ると、そこに立っていたのは、だらりの帯も、かんざしもかなぐり捨て、ただの娘の姿に戻った、佐知子だった。その手には、どこから持ち出したのか、先ほどよりも大きく、鋭い刃物が鈍く光っている。
「……どこへ、行くん?」
その声は、感情が抜け落ちた、人形のようだった。
「あんたら二人……。うちを置いて、二人だけで、どこへ行くん……?」
彼女の瞳は、虚ろだった。復讐を遂げたはずの彼女に残されたのは、埋めようのない、絶対的な孤独だけだった。和夫という執着の対象を失い、そして、彼の隣には、自分ではない別の女がいる。その事実に、彼女の最後の理性が、ぷつりと切れた。
「仲良う……死ねやッ!!」
佐知子は、獣のような叫び声を上げると、和夫ではなく、彼を支える菊乃に向かって、一直線に駆け出した。
「危ない!」
和夫が菊乃を突き飛ばす。もつれるようにして、二人は地面に倒れ込んだ。
その二人の上に、佐知子が、悪鬼の形相で馬乗りになる。
そして、その手に握られた刃が、何度も、何度も、振り下ろされた。
「あ……が……っ」
菊乃の口から、悲鳴にならない声が漏れる。和夫を庇おうとした彼女の背中や腕を、鋭い痛みが引き裂いていく。止めようとする和夫の手も、容赦なく切りつけられた。
メッタ刺しにされながら、菊乃の薄れゆく意識の中に、かつて姉さん芸妓に言われた言葉が蘇る。
*『みっともない真似だけは、したらアカンで』*
――ああ、うち、今、最高にみっともない顔、してんのやろなぁ。
それが、彼女の、最後の思いだった。
朝焼けに染まり始めた古都の空の下で、血に濡れた三つの影が、静かに重なり合っていた。
彼らの魂が、救われることは、もう、永遠にない。
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