第19話
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### 「京都祇園心中」 第十四話(フィナーレ)
襖の外から聞こえてくる、慌ただしい足音。
「奥様!」「どうかしはりましたか!」という仲居たちの切迫した声。
その物音に、佐知子は、はっと我に返った。
彼女の顔から、恍惚とした狂気の笑みが、すうっと消える。代わりに浮かんだのは、自分の築き上げてきた世界が、今、まさに崩れ去ろうとしていることへの、 তীব্রしい焦燥だった。
この騒ぎが知れれば、自分はもう祇園では生きていけない。芸妓・佐知子として積み上げてきた、すべてが無に帰す。この男のせいで。この、忌まわしい過去の亡霊のせいで。
「邪魔や……」
佐知子の唇から、呪詛のような呟きが漏れた。
「あんたさえ、来んかったら……。あんたさえ、うちの前に現れへんかったら!」
その憎悪に満ちた視線の先には、畳の上で呆然と膝をつく、和夫の姿があった。彼は、まだ心の整理がつかないのか、虚空を見つめたまま動かない。
「見つかってしもうた……! なにもかも、全部!」
佐知子の思考が、高速で回転する。
どうすればいい。どうすれば、この状況を切り抜けられる。どうすれば、自分の世界を守れる。
その時、彼女の視界に、畳の上に転がった、あるものが映った。
倒れた膳のそばで、鈍い銀色の光を放つ、小さな刃物。懐石料理で使う、果物ナイフだった。
彼女は、まるで何かに憑かれたように、そのナイフへと手を伸ばした。
隣で、菊乃がその異変に気づいた。
「佐知子! あんた、何する気!?」
だが、遅かった。
佐知子は、ナイフを掴むと、獣のような俊敏さで立ち上がり、和夫の背後へと回り込んでいた。
「これで、ほんまに、終わりにしてあげるわ」
彼女は、和夫の耳元で、悪魔のように優しく囁いた。
「先生」
その言葉に、和夫がゆっくりと振り返る。彼の目に映ったのは、ナイフを振りかぶる、かつての教え子の姿だった。
だが、和夫は、避けなかった。
驚きも、恐怖も、彼の顔にはなかった。ただ、すべてを諦め、受け入れるかのような、静かな表情があった。
ああ、これで終わるのか。
これで、ようやく、この長い贖罪から、解放されるのか――。
次の瞬間、佐知子の振り下ろした刃が、和夫の腹部に、深く、突き刺さった。
「……ッ!」
和夫の口から、くぐもった呻きが漏れる。鮮血が、彼のスーツを、そして、畳を、じわりと赤黒く染めていく。
「きゃああああああっ!」
菊乃の絶叫が、部屋中に響き渡った。
襖が、勢いよく開け放たれる。そこに飛び込んできたおかみや仲居たちが見たものは、血に濡れたナイフを握りしめ、返り血を浴びて呆然と立ち尽くす芸妓の姿と、その足元で、ゆっくりと崩れ落ちていく、一人の男の姿だった。
和夫は、薄れゆく意識の中で、自分を見下ろす佐知子の顔を見ていた。
その瞳に宿っていたのは、憎しみでも、狂気でもなかった。ただ、どうしてこんなことになってしまったのか、理解できないといった風の、迷子の子供のような、怯えた瞳だった。
――菜々美。
和夫は、声にならない声で、彼女の名を呼んだ。
お前を、救ってやれなくて、すまなかった。
それが、彼の、最後の言葉だった。
和夫の体から、完全に力が抜ける。彼の瞳から、光が消えた。
祇園の奥座敷で起こった、一つの心中劇。
それは、復讐の果てに、互いの魂を殺し合った、哀れな共犯者たちの、あまりにも悲しい結末だった。
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