第18話



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### 「京都祇園心中」 第十四話(続き)


菊乃の言葉は、まるで静かな水面に投じられた石のように、小さな波紋を広げた。しかし、その波紋は、佐知子の歪んだ恍惚と、和夫の深い絶望の前には、あまりにも無力だった。


「あんたが苦しめば苦しむほど、わては、満たされる」


佐知子のその言葉は、和夫にとって最後の引き金となった。

贖罪。救済。信じてきたすべてが、足元から崩れ落ちる。自分が費やしてきた十数年の歳月。捨ててきた仕事、家庭。そのすべてが、この少女の、悪魔のような復讐心によって弄ばれていただけだった。


許せない。

いや、許してたまるか。


「……おんどれぇッ!!」


和夫の喉から、獣のような咆哮が迸った。

彼は、床を蹴るようにして立ち上がると、目の前の佐知子に、憎悪の全てを込めて掴みかかった。


ガシャン!と膳が倒れ、酒器が畳の上に散ら乱する。

和夫の大きな手が、佐知子の華奢な肩を、骨が軋むほど強く掴む。白塗りの化粧が、その衝撃でわずかに崩れた。


「ふざけるな……! 俺の人生を……俺の人生を、返せッ!!」


和夫は、まるで壊れた機械のように、同じ言葉を繰り返しながら、佐知子の体を激しく揺さぶった。かんざしが乱れ、結い上げられた髪が、無残にほどけていく。美しい芸妓の姿は、もはやそこにはなかった。ただ、憎しみに満ちた男に掴まれる、一人の若い女がいるだけだった。


「やめて、和夫はん!」


菊乃が悲鳴を上げて止めに入るが、逆上した和夫には、もう何も聞こえていない。


しかし、その腕の中で、佐知子は抵抗しなかった。

それどころか、彼女は、恍惚とした表情を浮かべていた。和夫の憎悪を、その暴力を、まるで甘美な愛撫であるかのように、その全身で受け止めている。


「……そうや」


彼女は、乱れた髪の間から、狂気の笑みを浮かべて和夫を見上げた。


「その顔や。その顔が、見たかったんや……。うちを憎んで、うちのことしか考えられへんようになる、あんたの、その顔が……!」


その言葉に、和夫の動きが、ぴたりと止まった。

彼は、はっとしたように、自分の両手を見る。佐知子の肩を掴む、この手。彼女を憎悪する、この感情。それこそが、彼女が望んでいたものなのだと、ようやく理解した。


憎めば憎むほど、自分は彼女の呪縛から逃れられなくなる。

この復讐は、永遠に終わらない。


「あ……ああ……」


和夫の手から、力が抜けていく。彼は、まるで糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

掴むものを失った佐知子もまた、畳の上に、くずおれる。


静寂。

部屋に残されたのは、三人の、荒い呼吸だけだった。

復讐は、果たされた。

しかし、そこには、勝者も、敗者もいなかった。ただ、互いを呪い、共に破滅した、二人の共犯者がいるだけだった。


菊乃は、言葉もなく、その地獄絵図のような光景を見つめていた。

もう、何もかもが、手遅れだった。


襖の外から、騒ぎを聞きつけたお茶屋の者たちの、慌ただしい足音が、すぐそこまで迫ってきていた。

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