第17話
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### 「京都祇園心中」 第十四話
桔梗屋のおかみに、菊乃が持てるだけのコネと金を使い、無理やり捻じ込んでもらった二度目の座敷。前回と同じ、朱塗りの部屋。しかし、そこに漂う空気は、以前とは全く異なっていた。
和夫と菊乃は、まるでこれから談判に臨むかのように、黙って正面に座っている。その覚悟を決めた二人の気迫に、佐知子もまた、いつもとは違う何かを感じ取っていた。
舞も、三味線も、当たり障りのない会話も、すべてが終わった後。
仲居が下がり、部屋に三人だけが残された瞬間、口火を切ったのは和夫だった。
「菜々美。もう芝居はよせ」
その声には、迷いも、懇願もなかった。ただ、真実を求める者の、静かで揺るぎない響きがあった。
佐知子は、いつものように扇子で口元を隠し、優雅に微笑んだ。
「また、そのお話どすか。うち、困りますぅ」
「お前は、覚えているんだろう。あの日のことを」
和夫が続ける。佐知子の笑みが、わずかに引きつった。隣で、菊乃が固唾を飲んで二人を見守っている。
「先生……田中和夫が、部屋に駆けつけた時のことを。お前の母親が、血を流して倒れていた、あの光景を」
和夫の言葉は、刃物のように鋭く、佐知子の記憶の扉をこじ開けようとする。
「俺は、お前を助けたかった。お前が、母親にビール瓶で殴られているのを見て……俺は、お前の母親を突き飛ばした。揉み合いになった。だが、俺は殺していない」
「……」
「お前の母親に包丁を突き立てたのは、俺じゃない。そうだろ、菜々美」
その問いかけに、佐知子はついに扇子を下ろした。その白塗りの顔から、すうっと表情が消える。それは、芸妓・佐知子でも、生徒・佐藤菜々美でもない、誰も知らない、第三の顔だった。
彼女は、ふふ、と乾いた笑い声を漏らした。
「……よう、分かったはりますなぁ」
その声は、少女のものではなかった。地獄の淵を覗き込み、そして、自らそこに身を投じた者の、冷え切った声だった。
「せや。**わてが、やったんや**」
佐知子は、まるで昨日の夕飯の献立でも話すかのように、あっさりと告げた。
「オカンをな」
和夫も、隣の菊乃も、息を呑んだ。予想していた中で、最も残酷な真実。
「あんたが来る前から、わてはもう、決めてたんや。あの日に、全部終わらせよ、てな。いつものように、オカンは酒飲んで暴れとった。ビール瓶で殴られながら、わては台所から包丁、持ってきて……」
佐知子は、うっとりと、遠い目をする。
「そんで、あんたが部屋に入ってきた。ちょうどええタイミングやったわ。あんたとオカンが揉み合ってる隙に、わては後ろから、オカンの背中を……。一突きやった」
淡々と語られる告白に、和夫は言葉を失った。自分の知る、か弱かった少女は、いったいどこに消えてしまったのか。
「なんで……」
和夫が、かろうじて絞り出す。
「なんで、そんなことを……。そして、なぜ、俺のせいにしようとした」
その問いに、佐-知子は初めて、心の底からの、歪んだ笑みを浮かべた。
「決まってるやないの」
彼女は和夫を、そして、その隣の菊乃を、蔑むように見つめた。
「あんたに、罪を着せるためや。あんたが、うちのこと、ずっと見て見ぬふりしてきた罰や」
「……!」
「虐待されてるの、知ってたやろ。クラスでいじめられてるのも、知ってたやろ。せやけど、あんたは見て見ぬふりした。面倒なことに関わりたない、てな。そんなあんたが、卒業間際になって、急に心配するふりしだした。……虫が良すぎるんや」
佐知子は立ち上がると、和夫の目の前に、ゆっくりと膝をついた。そして、彼の耳元に、悪魔のように囁いた。
「せやから、仕組んだんや。うちを助けに来たあんたを、殺人犯に仕立て上げる。うちの地獄を、あんたにも味あわせたろ、てな。けど、失敗した。あんたは罪に問われへんかった。せやから……」
彼女は、恍惚とした表情で、和夫の頬にそっと触れた。
「あんたに、**一生、罪悪感を背負わせることにしたんや**。『自分があの時、助けていれば』て、ずうっと後悔しながら、生きていくように。うちのこと、忘れられんように。それが、あんたへの、うちからの、最高の復讐や」
記憶障害?
あれは、警察を欺くための、すべて、嘘。芝居だったのだ。
和夫は、全身の力が抜けていくのを感じた。
贖罪? 救済?
すべては、この少女が描いた、壮大な復讐劇の掌の上で踊らされていただけだったのだ。
「あんたは、うちの思惑通り、こうして祇園まで会いに来てくれた。最高の気分やわ。あんたが苦しめば苦しむほど、わては、満たされる」
その時、ずっと黙っていた菊乃が、静かに口を開いた。
「……あんたは、阿呆やな」
その言葉に、佐知子と和夫が、はっとして菊乃を見た。
「復讐、てか。そんなもんのために、自分の人生、棒に振って。ほんまもんの阿呆や。この男も、大概やけどな」
菊乃は、呆れたように、しかし、どこか哀れむような目で、二人を見つめていた。
「結局、あんたら二人、互いに呪い合うて、雁字搦めになっとるだけやないの」
その言葉が、狂気に満ちていた部屋の空気を、ほんの少しだけ、揺らした。
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