第16話
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### 「京都祇園心中」 第十三話(続き)
「俺は、もうとっくに破滅している」
和夫のその言葉は、まるで深淵の底から響いてくるかのように、菊乃の心を凍てつかせた。彼の瞳に宿る、正気の光が消え失せた底なしの闇。もう、どんな言葉も届かない。何を言っても、この男の破滅は止められない。
菊乃は、掴んでいた和夫の肩から、力が抜けていくのを感じた。ああ、もうダメだ。この人は、行ってしまう。自分には到底理解できない、地獄の果てまで。
諦めと、絶望。そして、見捨ててしまうことへの、わずかな罪悪感。
菊乃がうつむき、唇を噛みしめた、その時だった。
ふと、脳裏に、遠い昔の記憶が蘇った。
まだ自分が舞妓だった頃。大きな失敗をして、置屋のおかあさんにひどく叱られ、もう辞めようと泣いていた夜。誰も慰めてはくれなかった。だが、一番厳しかった姉さん芸妓が、背中を一度だけ、ぽん、と叩いてこう言ったのだ。
*『あんたがどないなろうと、うちは知らん。けどな、自分で決めたことやったら、最後までやり通しぃや。みっともない真似だけは、したらアカンで』*
そのぶっきらぼうな言葉に、なぜか救われた。見捨てられたのではなく、覚悟を問われているのだと知った。
菊乃は、はっと顔を上げた。
目の前にいる男は、確かに壊れている。独りよがりの贖罪に囚われた、どうしようもない阿呆だ。だが、その生き様は、あまりにも不器用で、まっすぐだ。自分で決めた地獄へ、ただひたすらに進もうとしている。
ならば。
ここで自分が彼を見捨てたら、あの夜の姉さん芸妓に笑われる。
この祇園で生きてきた、自分の矜持が許さない。
菊乃の唇に、ふっと、いつもの不敵な笑みが浮かんだ。それは、腹を括った女の、最高に美しい笑顔だった。
「……そうか」
彼女は、和夫の肩を、今度は力強く、バン!と叩いた。
驚いて顔を上げる和夫。その目に映ったのは、涙目でも、怯えた顔でもない、晴れやかな笑顔の菊乃だった。
「破滅しとる、てか。上等やないの」
菊乃はカウンターからひょいと乗り出すと、和夫の耳元に顔を寄せて、囁いた。
「うちが、ついとるよ」
「……え?」
「聞こえへんかった? うちが、あんたに、ついとる、言うてんの」
菊乃は体を離すと、仁王立ちのように胸を張った。その姿は、まるで頼もしい姉御のようだった。
「あんたがどないなろうと、離れん。せやから、しっかりせえや。やるんやろ? あたしらの前で、あの化け物の化けの皮、ひん剥いたるんやろ?」
その言葉は、和夫にとって、まったく予想外のものだった。
見捨てられると思っていた。軽蔑されると思っていた。だが、目の前の女は、自分の地獄に、共に飛び込むと笑っている。
「最後まで、やれや。みっともない真-似だけは、すんなよ」
その言葉は、かつて自分が聞いた言葉と、不思議なほど重なって聞こえた。
和夫の瞳に、ほんの少しだけ、正気の光が戻った。彼は、目の前の女を、初めて一人の対等な人間として、まっすぐに見つめた。
そして、かすかに、本当に、かすかに、口の端を上げて、笑った。
「……ああ」
それは、共犯者たちが、破滅への道を共に歩むことを誓った、覚悟の瞬間だった。
これから始まる本当の戦いを前に、二人の間には、奇妙で、そして何よりも強い絆が、確かに結ばれていた。
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