第15話



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### 「京都祇園心中」 第十三話


翌日の夜。

スナック菊乃のドアベルが鳴り、和夫がいつものように姿を現した。その顔は相変わらず生気がなく、カウンターの定位置に座ると、何も言わずに酒を求める。


しかし、その夜の菊乃は違った。

彼女はボトルにもグラスにも手を伸ばさず、ただ固い表情で、和夫をまっすぐに見据えていた。そのただならぬ雰囲気に、和夫もようやく顔を上げる。


「……どうした」


「こっちのセリフや」


菊乃の声は、低く、震えていた。怒りか、恐怖か、それとも憐憫か。様々な感情がごちゃ混ぜになった、複雑な響きだった。


「あんた、なんでうちにあん時のこと、話してくれへんかったん?」

「……何の話だ」

「とぼけんといて! 十数年前の、あんたの教え子のお母さんが死んだ事件のことや!」


その言葉が出た瞬間、和夫の肩が大きく揺れた。彼の瞳に、驚愕と、そして見抜かれたことへの狼狽が浮かぶ。菊乃は、彼の動揺に構わず、畳み掛けた。


「調べたんや、全部。あんたが、あの子のお母さんと揉めて……あの子が、あんたを庇って……」


菊乃の言葉は、そこで途切れた。彼女の脳裏に、記事にあった「記憶障害」の四文字がちらつく。だが、それを今この男に告げるべきか、一瞬ためらった。


和夫は、観念したように深く、長い溜息をついた。その溜息には、十数年分の後悔と苦しみが凝縮されているようだった。


「……そうか。知ってしまったか」

「当たり前や! あんだけのことしといて、なんでまたあの子に会おうとするん! あんた、自分が何したか、分かってんのか!」


菊乃の激情が、ついに爆発した。

だが、和夫は静かだった。彼はゆっくりと顔を上げると、菊乃の目をまっすぐに見つめ返した。その瞳の奥にあるのは、菊乃が想像していた罪悪感だけではなかった。もっと暗く、燃えるような、執念の光だった。


「分かっているさ。だからこそ、会わなければならんのだ」

「なんでや! もうあの子は、あんたの知ってる生徒やない! 佐知子いう、別の人間なんやで!」


「違う!」


和夫の鋭い声が、菊乃の言葉を遮った。


「あいつは、俺のせいで過去を失った。俺が、あいつの母親を……あいつの人生を、狂わせた。だから、俺が責任を取らなければならん。あいつの記憶がどうであれ、俺が真実を……」


「真実!?」


菊乃は、思わず声を荒らげた。


「真実を知って、どうするん! あんたは救うつもりかもしれんけど、あの子にとっては、あんたはただの疫病神や! あんたの顔を見るたび、お母さんが死んだ日のことを思い出すんやで! そんで、あんたはあんたで、あの子に会うたび、自分の罪を突きつけられるんや!」


菊乃はカウンターから乗り出し、和夫の肩を掴んだ。その指先は、必死だった。


「もう、会わんほうがええ! 和夫はん! やめよ! な!」


呼び名が、初めて「和夫はん」に変わっていた。それは、商売相手に対するものではない。一人の男の行く末を案じる、女としての必死の叫びだった。


「このままやと、あんた、破滅するで! 金も、仕事も、全部失って、最後はあの娘に骨の髄までしゃぶられて、終わりや!」


その言葉は、菊乃自身の本心でもあった。この男を、このまま見殺しにはできない。これ以上、自分もこの地獄に付き合うわけにはいかない。


しかし、和夫は、掴まれた肩をゆっくりと、しかし、抗えない力で振り払った。

そして、静かに言った。


「俺は、もうとっくに破滅している」


その瞳は、もはや正気ではなかった。

贖罪という名の呪いに取り憑かれた、一人の男の、壊れた瞳だった。

菊乃は、その底なしの闇を前にして、なすすべもなく立ち尽くすしかなかった。

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