第13話
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### 「京都祇園心中」 第十一話
お茶屋からの帰り道、二人は言葉もなく、夜の祇園の石畳を歩いていた。先ほどまでの華やかな喧騒は嘘のように静まり返り、軒先に吊るされた駒提灯の灯りだけが、二人の疲弊しきった顔をぼんやりと照らしている。和夫の足取りは、酒のせいだけではない、何か決定的なものを失ったかのように覚束なかった。
沈黙を破ったのは、菊乃だった。
彼女は何度もためらい、意を決したように、隣を歩く和夫の横顔に問いかけた。その声は、罪悪感で震えていた。
「なあ、田中さん……」
「……」
「ほんまに……人違い、やったんかね……?」
それは、菊乃にとって最後の希望にすがるような問いだった。人違いであってくれれば、自分はただの間抜けな仲介人で済む。だが、もしそうでなければ――。
「わて……あんたに、とんでもないこと、してもうたんやろか……」
自分の欲が、あの男を地獄の淵に立たせてしまったのではないか。その後悔が、菊乃の胸を締め付ける。
その時、和夫がぴたりと足を止めた。彼は、街灯の光が届かない、深い闇の中に佇んでいる。菊乃もつられて足を止めた。
「……いや」
和夫の声は、不思議なほど静かだった。怒りも、絶望も、そこにはない。ただ、凍てつくような確信だけが、その声に宿っていた。
「間違いなく、本人や」
「え……?」
「俺の目を、ごまかせるもんか。あいつは、佐藤菜々美だ。俺が救えなかった、俺の生徒だ」
和夫はゆっくりと振り返った。その顔は闇に沈んでよく見えない。だが、その瞳だけが、獲物を捉えた獣のように、爛々と光っているのを菊乃は見た。
「せやかて、あの子、あんたのこと、これっぽっちも知らんて……」
「ああ」
和夫は、まるで他人事のように頷いた。
「なぜ、あないなこと言わなアカンのか……」
その呟きは、菊乃に向けたものではなかった。彼自身の魂に向けた、問いかけだった。
なぜ、彼女は自分を拒絶するのか。なぜ、過去を完全に捨て去ろうとするのか。自分が、彼女に何か、決定的な過ちを犯したからなのか。
それまで和夫を突き動かしてきた「贖罪」という動機が、今、より暗く、執拗な「執着」へと変貌していくのを、菊乃は肌で感じていた。あの座敷での出来事は、彼を諦めさせるどころか、逆に火をつけてしまったのだ。
「あいつの心の中に、何があるのか……。それを確かめるまでは、俺は東京には帰れん」
和夫は再び歩き始めた。その足取りには、もう迷いはなかった。破滅へと向かう覚悟を決めた男の、確かな一歩だった。
菊乃は、その後ろ姿を呆然と見送ることしかできなかった。
もう、引き返せない。
自分も、この男も。
佐知子という名の美しい化け物が住む、この祇園という深い沼の底へ、共に沈んでいくしかない。
「しっとりよ……」
菊乃が絞り出した呟きは、誰に届くこともなく、夜の冷たい空気に吸い込まれて消えた。
これから始まる本当の地獄を予感しながら、彼女は震える足で、和夫の後を追った。
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