第12話
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### 「京都祇園心中」 第十話(続き)
佐知子の残酷な一言に打ちのめされ、和夫はまるで魂が抜けた抜け殻のようになっていた。注がれる酒も断らず、ただ無言で杯を重ねる。その様子を見かねた菊乃が、「田中さん、ちょっと頭、冷やしてきはったら?」と耳打ちした。和夫は、操り人形のようにふらりと立ち上がると、よろめきながら座敷を出て、手洗いへと向かった。
その背中を冷たい目で見送った佐知子は、何事もなかったかのように自分の杯に酒を注ごうとする。
その瞬間を、菊乃は見逃さなかった。
すかさず身を乗り出し、佐知子の手首をぐっと掴む。その力強さに、佐知子の眉がかすかに動いた。
「……菊乃さん、なんどす?」
「とぼけんといて」
菊乃の声は、低く、鋭かった。周囲の仲居に聞こえぬよう、最大限に声を潜めているが、その分、凄みが増している。
「あんた、ほんまにあの人のこと、知らんの?」
菊乃は、佐知子の瞳の奥を射抜くように見つめた。ここで嘘をつけば、見破れる。長年、この街で嘘と本音の狭間で生きてきた菊乃には、その自信があった。
しかし、佐知子は表情一つ変えなかった。彼女は掴まれた手首をするりと抜き取ると、不思議そうに小首を傾げる。その仕草は、あまりにも無垢で、完璧だった。
「はて……? 知らんけど。どなたやったかいねぇ。さっき、先生がどうとか言うてはりましたけど、うち、学校はもうとっくに昔のことやし」
その、しらじらしいほどの白々しさに、菊乃の苛立ちは頂点に達した。
「あんた、まだそんな芝居続ける気か!」
思わず声が大きくなる。佐知子は人差し指をそっと自分の唇に当て、「しー」と静寂を求めた。その余裕綽々の態度が、菊乃をさらに追い詰める。
「ほんまに、知らんのか……?」
菊乃の声は、懇願に近くなっていた。もし、本当に人違いなのだとしたら。自分は、あの男を、取り返しのつかない嘘の沼に引きずり込んでしまったことになる。あの男の人生を、破滅させてしまったことになる。背筋に、氷のように冷たい汗が流れた。
まずいわ。
菊乃の顔から、血の気が引いていく。
そんな菊乃の動揺を、佐知子は楽しむかのように、じっと観察していた。そして、おもむろに菊乃の耳元に顔を寄せると、吐息が混じるほどの小声で、囁いた。
「うちが、知ってるか、知らんか。……そんなこと、今さら、どっちでもええことやおへんか?」
その声は、悪魔の囁きのように甘く、そして冷酷だった。
菊乃は、はっと息を呑む。
この娘は、知っている。田中和夫のことも、彼が自分を追ってきた理由も、何もかも。その上で、この残酷な遊戯を楽しんでいるのだ。
佐知子はゆっくりと体を離すと、先ほどの無垢な芸妓の仮面を再びかぶり、にっこりと微笑んだ。
「それより、菊乃さん。あんたこそ、あの人に何吹き込んできたんどす? あんまり変な夢、見させたら、可哀想え」
その言葉は、菊乃の罪悪感を的確に抉り出した。
菊乃は言葉を失い、ただわなわなと唇を震わせる。
この娘は、化け物だ。自分が想像していたよりも、ずっと狡猾で、ずっと深い闇を抱えた、本物の化け物だ。
ちょうどその時、廊下から和夫の重い足音が近づいてくるのが聞こえた。
菊乃は、自分がとんでもないパンドラの箱を開けてしまったことを、ようやく悟ったのだった。
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