第11話



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### 「京都祇-園心中」 第十話


夕暮れ時の花見小路は、打ち水された石畳が濡れ、お座敷へと急ぐ芸舞妓たちのぽっくり下駄の音が小気味よく響いていた。その喧騒の中を、和夫と菊乃は並んで歩いていた。菊乃が手配したのは、桔梗屋の芸妓を呼べる、さる格式あるお茶屋の一室だった。和夫のカードは、この一晩のために限界まで切り刻まれていた。


「ええか、田中さん。ここでは、あんたは東京から来た、とある会社の社長さんや。間違っても『先生』なんて言ったらアカンで。うちはあんたの会社の、京都支社の社員。そういう手はずや」

「……わかっている」


菊乃の念押しに、和夫は固い声で答える。スーツに身を包んでいるものの、その顔はこれから戦場に向かう兵士のようにこわばっていた。心臓が、肋骨を内側から叩いている。


襖が開けられ、朱塗りの膳が並んだ座敷に通される。そこは、俗世間から切り離された、艶やかで濃密な空気が漂う別世界だった。やがて、三味線の音色とともに、廊下から涼やかな声が聞こえてきた。


「失礼いたしますぅ」


すっと襖が開き、そこに現れた姿に、和夫は息を呑んだ。


白塗りの顔に、紅い差し色。黒髪を結い上げた「奴島田(やっこしまだ)」のかんざしが、ちりりと鳴る。だらりの帯が美しい、若き芸妓。その涼やかな目元、きつく結ばれた唇の形は、紛れもなく、和夫の記憶の中にある佐藤菜々美のものだった。

だが、その少女が纏う空気は、和夫が知る、教室の隅でうつむいていたそれとは全くの別物だった。背筋は凛と伸び、その立ち居振る舞いには、一切の隙がない。彼女はもはや菜々美ではなく、完成された「祇園の佐知子」という名の芸術品だった。


佐知子は部屋に入ると、まず菊乃に目礼し、次いで客である和夫へと視線を移した。その瞳は、値踏みするような、それでいて何も映していないかのように、冷たく澄みきっていた。


「お初にお目にかかります。桔梗屋の、佐知子どす」


その声を聞いた瞬間、和夫の中で何かが弾けた。記憶の中の、か細い少女の声とは違う。しかし、その声の奥にある響きは、間違いなく彼女のものだった。


菊乃が慌てて取り繕う。

「佐知子はん、ご苦労さん。こちら、東京からお越しの田中社長さんや」

「まあ、遠いところをようこそおいでくださいました」


佐知子は完璧な笑みを作り、優雅にお辞儀をする。その仮面のような表情に、和夫は耐えきれなくなった。彼は菊乃の制止を振り払い、思わず腰を浮かせた。


「……菜々美」


その名を口にした瞬間、座敷の空気が凍りついた。佐知子の眉が、ほんのわずかに、ぴくりと動く。しかし、彼女の表情は崩れない。彼女は不思議そうに小首を傾げると、鈴を転がすような声で言った。


「はて? どなたはんで?」


その、あまりにも完璧な他人行儀の態度に、和夫は逆上した。

「俺だ! 田中だ! 中学校の時の、お前の担任だった田中和夫だ! 先生や! どないしたんや、忘れたか!」


必死の叫びは、しかし、朱塗りの座敷に虚しく響くだけだった。佐知子は、初めて見る奇妙な生き物でも見るかのように、和夫を静かに見つめている。そして、ゆっくりと、その紅い唇を開いた。


「……人違いや、おへんか?」


その声は、氷のように冷たかった。

その瞳の奥には、かつての教え子の面影など、ひとかけらも残ってはいなかった。

和夫は、愕然としてその場に立ち尽くす。自分が追い求めてきた幻影が、目の前で音を立てて崩れ落ちていく。


ここは、自分の知る世界ではない。そして、目の前の女は、自分の知る少女ではない。

祇園という名の深い沼の底で、彼はようやくその残酷な真実に直面したのだった。

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