第10話「……深入りせんほうがええよ」
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### 「京都祇園心中」 第九話(続き)
和夫の背中に頬を寄せたまま、菊乃はしばらく動かなかった。教師と生徒。贖罪。その言葉の重さが、じわりと彼女の心に染み込んでいく。自分が想像していたような、単なる色恋沙汰ではない。この男は、自分で自分に枷をはめ、過去という名の十字架を背負って、この祇-園までやってきたのだ。
なんて、面倒で、愚かで、そして哀しい男なのだろう。
菊乃はゆっくりと体を離すと、和夫の背中に向かって、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。
「……深入りせんほうがええよ」
その声には、いつものからかうような響きも、商売女の計算もなかった。ただ、この街の闇を知る者としての、真摯な響きがあった。
和-夫が訝しげに振り返る。
「どういう意味だ?」
「言葉どおりの意味や。あんたが探してるのが、ただの家出娘やったら、うちもここまで言わん。けどな、桔梗屋にいる『佐知子』は、そんな生半可な子と違う。あの子は……この祇園の闇に、好んで身ぃ沈めた子や」
菊乃は新しい煙草に火をつけると、その煙で自分の表情を隠すように、深く吸い込んだ。
「あんたの言う『贖罪』が、どんなもんか知らんけどな。もう手遅れかもしれへんで。あんたが救おうとしてる少女は、もうどこにもおらん。そこにいるんは、あんたの知らん『佐知子』いう化けもんや」
忠告や。
菊乃は、そう念を押した。それは、彼女なりの優しさであり、そして自分自身への言い訳でもあった。この男をこれ以上、底なし沼に引きずり込むことへの、わずかばかりの罪悪感。
和夫は、菊乃の言葉を黙って聞いていた。彼の表情は、スタンドの薄明りの中ではっきりと読み取ることはできない。だが、その瞳の奥で、激しい葛藤が渦巻いているのが菊乃には分かった。
「……それでも、俺は会わなければならない」
長い沈黙の末に、和夫は絞り出すように言った。その声は、揺るぎなかった。たとえそこにいるのが化け物であろうと、自分の目で確かめ、過去に決着をつけなければならない。彼の決意は、固かった。
その覚悟を見て、菊乃はふっと息を吐いた。もう、何を言っても無駄だ。この男は、止まらない。ならば、自分にできることは一つしかない。
「分かったわ」
菊乃は煙草の火を灰皿に押し付けると、シーツの中からすっと立ち上がった。無防備な裸身を晒したまま、床に散らばった自分の着物を拾い上げる。
「佐知子には、会わせたる。約束やからな」
彼女は手早く着物を身に纏いながら、和夫に背を向けたまま言った。
「せやから、心配せんとき。あんたがその化けもんに喰われそうになったら……」
菊乃は振り返り、悪戯っぽく、しかしどこか寂しげに微笑んだ。
「このうちが、喰い返したるわ」
それは、共犯者として、そして今夜、肌を合わせた女としての、彼女なりの覚悟の表明だった。
和夫は何も言えず、ただその姿を見つめていた。
二人の間に生まれた奇妙な絆は、これから二人を救済へと導くのか、それとも、共倒れの破滅へと引きずり込んでいくのか。
モーテルの窓の外で、古都の夜が静かに更けていった。
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