第9話「あんたは、ほんまに……しっとりな男やな」
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### 「京都祇園心中」 第九話
古びたモーテルの回転扉を抜けると、そこは昭和の残り香が充満する空間だった。菊乃が手慣れた様子で選んだのは、一番奥の薄暗い部屋。祇園の華やかさとは無縁の、安っぽいベルベットのカーテンが窓を覆っている。
軋むベッドの上で、和夫は裸の上半身を起こし、煙草に火をつけた。彫りの深い横顔を、スタンドのオレンジ色の光がなぞる。吐き出された紫煙が、部屋の澱んだ空気にゆっくりと溶けていった。事は、すでに終わっていた。そこにあったのは、激情でも、愛情でもない。ただ、互いの孤独を一時的に埋めるための、乾いた行為だけだった。
隣でシーツにくるまっている菊乃が、猫のように身じろぎした。彼女も煙草を一本抜き取ると、和夫の持つそれに火を移す。細く煙を吐き出しながら、彼女は天井の染みを見つめて、ぽつりと言った。
「あんた、教師やったんやてな」
「……どこでそれを」
「この商売してたら、耳は早いんや。それに、あんたの指、チョークの粉で少し荒れとる。昔、よう見たわ、そういう先生の指」
和夫は何も答えず、ただ煙草を深く吸い込んだ。過去を暴かれることへの苛立ちと、この女の洞察力への奇妙な感心が入り混じる。
しばらくの沈黙。先にそれを破ったのは、菊乃だった。彼女は体を和夫の方に向け、その背中に問いかける。
「ねえ、旦那はん」
いつの間にか、呼び名が変わっていた。それは、水商売の女が客に使う、親密さと距離感を同時に示す言葉。
「なんで、そないに佐知子はんが気に入ってはんの? 他にも綺麗な子は、ぎょうさんおるやろ。東京にも、この祇園にも」
その問いは、ずっと菊乃が抱いていた純粋な疑問だった。金と地位、もしかしたら家庭さえも捨てて追い求めるほどの価値が、その女にあるというのか。
和夫の肩が、ぴくりと動いた。彼はゆっくりと煙を吐き出すと、灰皿に煙草を押し付けた。そして、菊乃の方を振り返らずに、静かに語り始めた。その声は、遠い過去を辿る巡礼者のように、ひどく穏やかだった。
「……彼女は、佐知子じゃない。菜々美だ」
「……」
「佐藤菜々美。俺が中学で担任をしていた、ただの生徒だ」
菊乃は黙って、次の言葉を待った。
「あいつは……いつも一人だった。教室の隅で、いつも窓の外を見ていた。誰も、あいつが抱えている闇に気づこうとしなかった。親からの虐待、クラスでの孤立……俺も、見て見ぬふりをしていた」
そこで和夫の言葉が途切れる。彼の背中が、後悔という重い荷物を背負って、小さく震えているように見えた。
「卒業式の日に、あいつは俺に言ったんだ。『先生、助けてくれてありがとう』ってな。俺は何もしてやれなかったのに……。それきりだ。あいつは、消えた」
和夫はゆっくりと振り返った。その瞳は、懺悔する罪人のように、深い苦悩の色をたたえている。
「俺は教師失格だ。いや、人として失格だ。だから、見つけ出して、謝らなければならない。今度こそ、あいつを救わなければならない。それが、俺にできる唯一の……贖罪なんだ」
贖罪。
その言葉を聞いた瞬間、菊乃は理解した。この男を突き動かしているのは、恋情や欲望ではない。もっと業が深く、救いのない、独りよがりの正義感なのだと。
菊乃は、ふっと息を漏らした。それは、呆れでも、同情でもない、何か別の感情だった。
「あんたは、ほんまに……しっとりな男やな」
彼女はそう言うと、和夫の背中にそっと自分の頬を寄せた。その傷だらけの背中が、まるで自分のものであるかのように感じられた。
二人は、共犯者になった。そして今、同じ傷を舐め合う、共存者になろうとしていた。
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