第8話「一見(いちげん)ではないぜ」
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### 「京都祇園心中」 第八話
菊乃の頬を伝った一筋の涙が、カウンターの床に落ちて小さな染みを作った。和夫は彼女の手に重ねた自分の手を離すと、一歩、距離を取った。熱に浮かされたような店の空気が、すっと冷える。
菊乃は、和夫が自分を受け入れたのだと思った。だが、彼の口から出た言葉は、彼女の予想を裏切るものだった。
「……だが」
和夫の声は、酔いが完全に醒めたかのように、低く、そして冷静だった。佐藤浩市さんの、すべてを見透かすような鋭い視線が菊乃を射抜く。
「一見(いちげん)ではないぜ」
「……へ?」
菊乃は呆気に取られて、和夫の顔を見つめた。一見ではない。その言葉の意味を、彼女は即座に理解した。一度関係を持ったからといって、それで終わりにはしない。この男は、そう言っているのだ。
和夫はカウンターに散らばった紙幣の中から一枚だけを抜き取ると、菊乃の震える指の間に挟んだ。
「これは、今夜の情報料だ」
そして、残りの札束を無造作に掴んで財布に戻しながら、彼は続けた。その口調は、もはや懇願する客のものではなく、対等な、いや、それ以上の力関係を主張するものだった。
「また騙されては困るからな。その佐知子という女に、俺がしっかり会えるまで、あんたに付き合ってもらう」
和夫は菊乃の顎に軽く指を添え、ぐいと上を向かせた。有無を言わせぬ、強い力だった。
「いいな?」
その瞳は、笑っていなかった。
純粋な執着は、時として何よりも冷徹な刃となる。金に、情に、流されかけていた自分を律するかのように、和夫は菊乃との間に新たな「契約」を突きつけたのだ。
菊乃は、和夫の指に顎を掴まれたまま、動けなかった。
この男は、自分が思っていたような、過去の幻影にすがるだけの哀れな中年男ではなかった。目的のためなら、女の涙さえ利用する冷徹さと、決して折れない執念を、その奥底に隠し持っている。
面白い。
心の底から、そう思った。
金づるだと思っていた男に、いつの間にか首輪をつけられていた。その屈辱と、同時に背筋がぞくりとするような興奮。
菊乃の唇に、いつもの不敵な笑みがゆっくりと戻ってきた。
「……ええよ」
彼女は和夫の指をそっと払い除けると、その挑戦的な視線をまっすぐに受け止めた。
「とことん付き合うたるわ。その代わり、あんたも途中で逃げ出さんといてや。この祇園の沼は、あんたが思うてるより、ずっと深いんやから」
二人の間に、火花が散った。
それは、男と女の色恋などという生易しいものではない。互いの目的と魂を賭けた、共犯者たちの契約が、今まさに結ばれた瞬間だった。
「ああ、望むところだ」
和夫はそう言うと、今度こそ店に背を向けた。
カラン、とドアベルが鳴り、夜の闇に彼の姿が消える。
一人残された菊乃は、指に挟まれた一万円札をひらひらとさせながら、カウンターに崩れるように座り込んだ。心臓が、まだ激しく高鳴っている。
「しっとりよ……。ほんま、とんでもない男、拾ってもうたわ」
その呟きには、後悔よりも、これから始まるであろう破滅的な遊戯への、確かな期待が込められていた。
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