第5話「明日、また来て」。その言葉は、後戻りできない破滅への契約書。
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### 「京都祇園心中」第五話
結局、その夜、和夫は菊乃の店でボトルが空になるまで飲み続けた。アルコールが彼の心の堰を壊したのか、ぽつりぽつりと「菜々美」との断片的な思い出を語り始めた。菊乃はただ黙って相槌を打ち、グラスが空になるたびに新しい酒を注いだ。それが、この手の客から金と本音を引き出すための、彼女なりの流儀だった。
千鳥足で会計を済ませ、和夫が店の扉に手をかけた時、背後から菊乃の声が飛んだ。
「待ちなはれ」
振り返った和夫の瞳は、酔いと不安で頼りなく揺れていた。
「明日、またこの店に来てーな。夜の八時頃や」
「明日……? すぐに会えるんじゃないのか」
焦燥感を隠せない和夫に、菊乃はわざとらしくため息をつく。
「無茶言わんといて。佐知子はんかて、いつお座敷に出るかわからへん。それとなく探り入れとかなアカン。こっちも準備がいるんや。信用できひんなら……もうええわ。金は返す」
突き放すような言葉に、和夫の顔から血の気が引いた。この女に見捨てられたら、もう自分には何の繋がりもない。彼はよろめきながらカウンターに戻ると、衝動的にペンと、そこに置かれていたナプキンを掴んだ。
「待ってくれ!」
インクが滲むのも構わず、彼はナプキンの裏に乱暴な字で自分の名前を書きなぐる。そして、それを菊乃の目の前に突き出した。
**「田中や! 田中和夫や、頼むで!」**
それは懇願であり、ほとんど悲鳴に近かった。訛りの混じった必死な声が、静かな店内に響く。彼が自らの素性を明かし、すべてを委ねる覚悟を示した瞬間だった。
菊乃は差し出されたナプキンを、ゆっくりとした仕草で受け取った。その必死な瞳の奥に、破滅をも厭わぬ狂気の光が揺らめいているのを見逃さない。面白い。この男は、骨の髄までしゃぶり尽くせそうだ。
彼女はふっと口の端を吊り上げて笑うと、ナプキンを丁寧に折り畳み、懐にしまった。
「へえへえ、分かってますぅ。お客さんの頼みやもん、なんでも聞いたげる」
「……約束だ」
和夫は、絞り出すように言った。
「その佐知子という芸妓のこと、そして、この祇園という街のことを、洗いざらい話してくれ」
「約束やで、田中さん」
初めて呼ばれた自分の名前に、和夫はもう驚かなかった。自ら差し出したのだから。菊乃の笑顔は、聖母のようにも、すべてを食い物にする魔女のようにも見えた。彼は一度だけ頷くと、今度こそ祇園の石畳が濡れる夜の闇へと消えていった。
一人残された菊乃は、カウンターに戻ると、和夫が書きなぐったナプキンを再び広げた。インクで滲んだ「田中和夫」の四文字が、まるで血文字のように見えた。
「約束、ねえ……」
菊乃はグラスを丁寧に洗いながら、独りごちる。
あの男は知らない。祇園での約束は、時に人の一生を縛るほどの重みを持つことを。そして、自分がこれから話す「佐知子の話」が、どこまで真実で、どこからが金を引き出すための脚色なのか、自分自身でさえ曖昧になっていくであろうことを。
「しっとりよ、ほんまに」
誰に言うともなく呟いたその言葉は、空になった店内に虚しく響いた。
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