第4話「金なら、ある」――その瞳に宿る狂気は、悪女をも魅了する。
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### 「京都祇園心中」 第四話
菊乃の掌に叩きつけられた数枚の諭吉は、まるで乾いた喉に吸い込まれる水のように、あっという間に彼女の懐へと消えた。金を受け取った途端、菊乃の態度は露骨に変わる。さっきまでの警戒心はどこへやら、まるで旧知の客をもてなすかのような、人懐こい笑みを浮かべた。
「おおきに。これでうちも、本気で動けるわ」
和夫はそんな彼女の現金な態度を、ただ黙って見つめていた。この女を信用していいのか。だが、他に術はない。藁にもすがる思いだった。
「それで、幸子に心当たりは?」
焦燥感を滲ませる和夫に、菊乃はわざとらしく「うーん」と首を傾げ、カウンターの端に積まれた古いタウン誌や業界紙の束をガサガサと漁り始めた。
「幸子、幸子なぁ……。あんたが言うてんの、どんな字ぃ書くの?」
「幸せの子、と書いて幸子だ」
和夫が答えると、菊乃は「ぷっ」と吹き出した。そして、腹を抱えるようにして笑い出す。
「あははは! アカン、おもろいわ、あんた!」
「何がおかしい」
怪訝な顔をする和夫に、菊乃は涙を拭う仕草をしながら言った。
「だいたい、字が違うわ! そんなおめでたい名前の芸妓、この祇園におるかいな。源氏名っちゅうのはな、もっとこう、雅で、含みのあるもんをつけるんや」
菊乃はそう言うと、ペンを取り出し、おしぼりの袋の裏にさらさらと文字を書いた。
**『佐知子』**
「『佐知子(さちこ)』ゆう芸妓さんなら、おるで? たしかや!」
その文字を見て、和夫は息を呑んだ。自分が追い求めていた名前とは違う。しかし、読みは同じだ。希望と失望が入り混じった複雑な表情で、和夫は菊乃に問う。
「……その佐知子というのは」
「ああ。うちがいた置屋の、ずーっと後輩や。まだ二十歳そこそこで、今売り出し中。そやけど、えらい人気でなあ。一見さんがあんたみたいな格好でふらっと行って会えるような子と違うで」
菊乃はペン先でカウンターをとんとんと叩きながら、値踏みするように和夫を見た。
「それに、この祇園で『さちこ』いう源氏名の芸妓は、その佐知子はん、一人しかおらん」
一人しかいない。
その言葉は、和夫の心臓に重く突き刺さった。偶然か、それとも。菜々美が、自分の過去を隠すために、あえて同じ響きで違う漢字の名を名乗っている可能性は十分にある。
「会わせてくれ。その、佐知子という人に」
「無茶言わんといて。お茶屋遊びもしたことないあんたを、誰が紹介するん。それに、あの子のお座敷は高いで? あんたがさっき払った分くらい、一晩で軽く飛んでいくわ」
菊乃は再び、金の匂いをちらつかせる。だが、今の和夫にそれは通じなかった。彼は財布からクレジットカードを取り出すと、カウンターの上に置いた。
「金なら、ある。いや、作る。だから、会わせてくれ。頼む」
その瞳に宿る狂気じみた光を見て、菊乃はゴクリと喉を鳴らした。この男は、本気だ。破滅することも厭わずに、この沼に足を踏み入れようとしている。
面白い。
そして、この男の行く末を見届けたい。
もちろん、自分の懐を潤しながら。
菊乃はクレジットカードには目もくれず、悪女のようににっこりと微笑んだ。
「分かったわ。そこまで言うんやったら、なんとかしたる。ただし、うちの言うことは、きっちり聞いてもらうで。この街には、この街のルールがあるんやから」
和夫は、こくりと頷いた。
祇園という名の、華やかで底の知れない迷宮へ。菊乃というしたたかな案内人と共に、彼は破滅への第一歩を、確かに踏み出した。
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