第3話「人探しやろ? タダで教える義理はないわ」――金が動く時、祇園の闇も動き出す。
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### 「京都祇-園心中」 第三話
三杯目の水割りが、和夫の前に差し出される。カウンターの上の小さなランプシェードの光が、グラスの中で揺らめき、和夫の顔に頼りない影を落としていた。アルコールが回ってきたのか、彼の肩から少しだけ力が抜けているのを、菊乃は見逃さなかった。
客の警戒心が緩む瞬間。それが、商売女にとっての好機だ。
「で、東京からわざわざ、こんな裏末(うらすえ)の店に何の御用なん? 観光やないことくらい、うちでも分かるわ」
菊乃が核心を突くと、和夫は初めて自分から視線を上げた。その瞳は酔いで潤んでいるのか、それとも別の何かなのか、ひどく湿って見えた。彼はしばらく菊乃の顔をじっと見つめた後、意を決したように口を開いた。
「聞いた話なんだが……あんた、昔、祇󠄀園の芸妓(げいこ)やったんやて?」
和夫の口から、不意に訛りの混じった言葉が漏れる。それは、彼がこの土地と無縁ではないことを示唆していた。菊乃は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの食えない笑みに戻る。
「へえ、よう知ったはる。どこの誰に聞いたん? ろくな噂やないやろ」
「いや……」
和夫は言葉を濁すと、身を乗り出すようにして声を潜めた。その必死な様子に、菊乃は内心で舌打ちをする。これは、厄介事の匂いだ。
「幸子(さちこ)ゆう芸妓、知らんか?」
幸子。
その名前が出た瞬間、菊乃の指先がぴくりと震えたのを、和夫は気づかなかった。店内に流れていた気だるいジャズの音色が、やけにはっきりと耳に届く。菊乃は表情を変えぬまま、ゆっくりと煙草に火をつけた。紫煙を細く吐き出し、和夫の目を射抜くように見つめる。
「……幸子?」
「ああ。年は二十歳くらいのはずだ。この街で、芸妓をしていると聞いた」
「二十歳そこそこの売れっ子やったら、うちみたいな“上がり”のもんが知るわけないやろ。あんた、誰に聞いたん、その話」
菊乃の声は、先ほどよりも明らかに低く、冷たくなっていた。それは、縄張りを荒らされかけた獣の警戒心にも似ていた。
「とにかく、心当たりはないか。どうしても、会わなければならないんだ」
和夫の声には、懇願と、拒絶を許さない命令のような響きが混じっていた。その尋常ならざる気配に、菊乃は確信する。この男は、ただの人探しではない。もっと深く、暗く、面倒なものを背負っている。
そして、それは金になるかもしれない。
菊乃は細く煙を吐き出すと、灰皿に煙草を押し付けた。そして、悪戯っぽく笑い、すっと右手を差し出す。デジャヴのような光景に、和夫は眉をひそめた。
「なんや?」
「人探しやろ? タダで教える義理はないわ。それに、幸子はんが誰かなんて、そう簡単には分からへん。調べるんなら、それなりに“実費”がかかるんやで」
そのちゃっかりとした態度に、和夫は一瞬呆気にとられたが、すぐに目の前の女が唯一の手がかりであることを思い出す。彼はため息をつくと、コートの内ポケットから財布を取り出し、一万円札を数枚、菊乃の差し出した手のひらの上に置いた。
「……これで、足りるか」
菊乃は札束をひらひらとさせ、満足げに頷いた。
「まあ、手付金としては、こんなもんやろか」
その金を懐にしまい込みながら、菊乃はまるで独り言のようにつぶやいた。
「幸子、ねえ……。うちの知ってる『さっちゃん』とは、えらい違いやわ」
その言葉の真意を、まだ和夫は知る由もなかった。
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