IBOHAZARD

 日曜の夜。洗面台の前。

 俺はグイっと、目いっぱい体を捻って、自分の右の尻を見る。

 そこに葉っぱみたいにぶら下がってるもの。


 イボだ。


(だいぶデカくなってきたな。なんか、脳みそみたい)


 気づいたときには、あった。

 最初は鼠の乳首くらいしかなかったし、特に気にしてなかった。

 でも段々と大きくなって、いまは三~四センチくらいまで育ってる。

 

 一年前くらいに悪いものじゃないかと怖くなって皮膚科で見てもらったら、


 『あー、放っといても問題ないですね。でも見た目が気になったり邪魔であれば、手術で取る感じにになりますねー。ここじゃできないんで紹介状書く感じになるけど、どうします?』


 と、言われ。

 まぁ、脱ぐ予定なんかないし別にいいかと思って放っておいた。


 でもさすがにここまで大きくなると、銭湯なんかにいったときは、正直ちょっと恥ずかしい。

 あとパンツを履くときに引っかかったりして邪魔に感じてきた。


「……取るかぁ?」


 そう思いながらイボを撫でる。

 こんなものでも自分の体の一部だと思うと、ちょっと名残惜しい気がしてくる。


 でも撫でるうち、もぞもぞとイボが動いたような気がした。

 いや、そんなわけは……ちがう、確かに動いてる……!


 怖くなった俺はもう一度体を捻ってイボを見る。

 勢いよく捻り過ぎたせいでボキッ、と嫌な音がしたがそれどころじゃない。

 

 そこにあったのは、イボ。

 でもただのイボじゃない。

 顔がついている。人面イボだ。

 

「ギャーーーーーー‼‼」

「イヤァァァァァァァ‼‼」


 俺とイボが同時に絶叫する。

 マンドラゴラもかくやと思われる叫び声が狭いアパートの一室に響き渡る。

 ドンッと壁が揺れる。


「うっせぇぞ‼」

「ひぃ!ごめんなさーい!」

 

 え、なにが起きてんの?

 俺になにが起こってんの?

 

 俺は恐る恐るもう一度イボを見る。

 やっぱり、顔がついてる。

 しかも、ひどい仏頂面。


「え、いや、ていうか、なにお前。お前が悲鳴上げる意味が分かんないんだけど」

「は?考えてみ?朝起きて自分が男のケツにくっついてたら、引くだろ?」


 それは、たしかにそうかもしれない。

 女性のお尻だったら多少得した気分になるかもしれないけど……いや、そうじゃない。

 

 なんだかおかしな世界に迷い込んでしまったような気分だ。

 正常な思考をしていると、逆に正気を保てなく類の。

 よし、順応しよう。まずは受け入れることが大事だと、俺は腹を決めた。


「君、イボだよね?」

「……そのようだね」


 声が明らかに意気消沈している。

 人語を話しているということは、人間の肉体に納まるべき魂がイボに宿ってしまったケースなのだろうか。


「元々人間だった系?」

「……」


 沈黙。

 きっと本人、いや、本イボですら混乱してるんだろう。

 答えを急いでは可哀想だ。俺は待つことにした。


 なんとなく椅子に座るのも忍びなく、俺はしばらくスクワットをしたりして過ごしたが、さすがに疲れてきた。

 あと、風呂にも入りたかった。


「あの……風呂入ってもいい?呼吸とか、いる人?」

「……わからん」

「じゃあ、試してみていい?」

「……」


 ひとまず肯定と受け取って俺は風呂に入る。

 湯舟の湯を少しだけ手で掬って、そっとイボを浸す。


「……どう?」

「息とかいう概念、俺にはないっぽい。あったけぇー。あとたぶん座っても大丈夫よ」


 俺は言われた通りに湯舟に腰を下ろす。

 でもすぐに立って、また確認する。大丈夫か、と。

 モーマンタイ、というイボにまずは安堵する。


 


「俺は、お前だ」


 夜、ベッドに横になった頃にようやくイボが口を開いた。

 でもなんだか、哲学的なことを言っている。


「俺は、お前」


 ついオウム返ししてしまう。

 俺がお前でお前が俺で――なんか似たニュアンスのドラマが昔あった気がするが、あれは確か男女の話だったはずだ。

 このイボは声の感じで明らかに男だし、ロマンスの香りなんて微塵もない。

 

 なにも分からん。


「つまり、一心同体だ」

「え、一生このままってこと?」

「そりゃそうだろ」


 当然のように言う。

 なにやら勝手に悟りを開かれている。

 

 ちょっと待てと、俺は思った。

 流石にそれは困る。このまま更に大きくなる可能性だってあるし、そうなると益々看過できなくなる。


「いや、無理。明日時間給とって皮膚科行くから」

「は?お前まさか、俺をパージするつもりか?」


 自分でパージとか言うなよ。


「パージっていうか、バイバイっていうか……」

「いや一緒だろ。なにちょっとエモい感じで誤魔化そうとしてんだよ」

「サクッと切られるのと、強酸性の温泉でジワジワ溶かされるの、どっちがいい?」

「サイコ!この人サイコです!いやしかも俺が溶けるレベルとか、それもう温泉じゃねーよ!」

「じゃあ温泉は行っていい?ちょっと行きたいところあって――」

「いや話がズレてるし、溶けなくても強酸性はヤダよ!……え?心から折りに来てる?そんな仕事つらいの?話聞くよ?」


 ひとしきり二人でわめき終えると、しんとした夜気に包まれる。


(……兄弟とかいたら、こんな感じだったのかな)


 俺は一人っ子だったから、夜は基本孤独だった。

 それが特別寂しいと思ったこともないけど……なんだか急に人恋しくなってきた。

 前に彼女いたの、いつだっけ。

 

「いいのか?俺はお前だぞ?」


 静寂に耐えかねたのか、イボがさっきの話を蒸し返してきた。

 ……チッ。

 

「だから?」

「お前の記憶はだいたい全部、把握してるってことだよ。つまり、俺はお前の恥ずかしいことは全部知ってるんだ。……オフィスで性癖暴露されて社会的に死にたくないだろ?」


 なんてことだ。

 俺はいま脅されている。

 

 でもハッタリだと思った。

 やれやれ、イボの浅知恵だ。


「じゃあなんか、試しに言ってみろよ。証明してみせろ」


 なんとなく、イボが嗤った気配がした。

 尻がぞわぞわする。


「まず、お前はおっぱい星人だな」


 落ち着け。

 男の半分はおっぱい星人なんだ。こんなのはただのバーナム効果だ。俺は詳しいんだ。

 なお大きさに拘りはない。


「……他には?」

「女が髪を耳にかける仕草にグッとくる」


 まだまだ。よくある話だ。当てずっぽうに決まってる。


「髪の毛を食ってるのも好きだ」


 ……まぁ、たしかに。

 寝起きとかに、乱れた髪が口に入っちゃってるの、無防備でちょっと色っぽいんだよな。


「好きな体位は――」

「わかった、わかったよ!信じるから」

 

 別に誰に聴かれてるわけでもないが、恥ずかしくて仕方なくなってきた。

 とにかく、このままでは不味い。

 週末、神社でお祓いでもしてもらおう。


「俺、悪霊とかじゃねーから」


 考えてることも筒抜けらしい。

 え、これなんの拷問?

 

 *

 

 翌朝、俺は妙な疲れに体を引き摺りながら、電車に揺られていた。

 思考が筒抜けだと思うと、あまり迂闊なことを考えられない。

 だって恥ずかしいじゃないか。

 そのストレスが半端ない。


 そういう意味では仕事中は楽だった。

 余計なことを考えなくて済む。

 

「進一さん、いまちょっとだけお時間大丈夫ですか?」


 五十嵐さんだった。

 俺の苗字は鈴木だが、鈴木呼びだと三人くらいが振り向いてしまうから、名前呼びされるのが普通だ。

 彼女は自分より三つ上の先輩で、人事部。俺は密かに彼女のことが好きだった。

 分かりやすい美人というわけではなかったけど、人当たりがよくて、雰囲気があった。

 考え事をしているときの横顔がミステリアスで、疲れるとつい彼女を目で追ってしまっている。


 でも、どうこうしようという気はなかった。

 他の男性社員にも人気があるのは、たまに付き合いで喫煙所にいると分かった。

 結婚はしてなさそうだったけど、そもそも彼氏がいるかもしれないし、そうでなくても釣り合う気がしない。

 眺めていられたら、自分には十分。

 そもそも相手は人事部だ。人心掌握術には長けている。

 俺はきっと、それにほだされているだけだ。

 恋愛のゴタゴタで傷つくのも、傷つけるのも、もうたくさんだ。


「○○さんの案件、進一さんご担当でしたよね?今度応募してこられた方の前職がそこなんで、もしかして知ってるかなって」

「なんていう方ですか?」


 ああ、癒される。

 香りものは詳しくないけど、なんか良い匂いするし。

 あー、笑顔が鳩尾に効く~。

 

「ありがとうございます、助かりました」

 

 ひと通りの話を終え、別れの時間がやってくる。

 うん、名残惜しいけど、十分に充電できた。

 これで今週はやっていけそうだ。


「五十嵐さん、マジ癒されるわぁ~」

「……え?」


 俺の声で勝手に俺の心の声が垂れ流されている。

 ……え?なんで?俺そんな思いつめてた?

 

 はっ、イボの野郎!


 俺はズボンの上からイボを握りつぶしてやりたかったが、それで更に余計な暴露でもされたら溜まったものではない。そう思い直してやめた。

 

 ていうか、終わった。

 俺はセクハラ野郎として女子社員の間で今後冷遇され、やがて上司に伝わって、嫌な営業とタッグを組まされるんだ。そして金払いが悪いくせに要求ばかり多いモンスタークライアント案件をたらい回しにされるんだ。


(お、おわった……)


「えっと……あ、ありがとう……?」

「へ?」


 半分意識がアセンションしていた俺の耳に飛び込んできたのは、どこか甘やかな五十嵐さんの声。

 見ると、伏し目がちに髪を耳にかけながら、いじらし気にこちらをチラチラ見ている彼女の姿があった。


「あ……ごめん、うん……五十嵐さんがいると、いつもチームの雰囲気が和んで、助かるなぁって……はは……」

(え、な、なにこの感じ? あれ?)

 

 五十嵐さんはエヘヘと淡く微笑むと、ターンして、すたすたと自席まで戻っていった。

 かすかな彼女の残り香が、しばらく自席の周りを漂っている気がした。


(……めっちゃ仕事がんばろ)


 俺は単純だった。


 でも、イボが悪戯心を出すのは俺が彼女と話す時ばかりで、他は基本的に静かだった。

 腹の立つ上司に詰められているとき、代わりにキレてくれないかと冗談半分で期待したりもしたが、沈黙を守っていた。


 俺はイボのいる生活に慣れていった。

 一日の終わりに愚痴につき合ってもらったり、一緒に五十嵐さんの魅力を語り合ったりするのは楽しかった。

 なにせ相手は自分の分身だ。話が合わないわけがない。

 むしろ自分では客観視できないようなことも拾ってくれたりして、意外と建設的な会話ができているのは意外だった。

 頭では分かっていても、自分ではうまく言葉に出来ないようなことは多い。


 でも、ある木曜の夜――


「そろそろ限界なんだよ」


 最初のときと同じ、洗面台の前で服を脱いでいるとき、イボがおもむろに口を開いた。

 

「限界って、なにが?」

「これ以上デカくなると、俺は俺を抑えられなくなる。それが本能で分かるんだよ」


 なんだか中二病みたいなことを言い出した。

 

「……抑えられなくなると、どうなんの?」


 俺は笑い半分で尋ねる。

 

「お前の意識は、完全に俺に乗っ取られる。そしてイボは新しい宿主を探して飛んでいき、そうやってどんどん仲間を増やすんだ」


 唐突なSFホラー設定だ。

 

「え、お前そんなヤバイ存在だったの?エイリアンじゃん」

「そう、IBOHAZARDイボハザードの始まりだ」

「イボハズァァァァドゥ」

「……は?」

「ごめん、言いたかっただけ」


 イボのノリが悪い。

 まさか、本当に……?

 

「……だから、早く俺を切れ。すぐかかりつけの皮膚科で紹介状を書いてもらって、手術するんだ。あ、お前はバカだから教えといてやるけど、紹介状を書いてもらったからってすぐに手術とはならないからな。紹介先の病院でまたイチから診察して手術の日程を決めるんだ」


 なんでそんな、俺も知らないことをこいつは知ってるんだろうか。

 でも助かった。危うく恥をかくところだった。

 ただ……


「切ったら、お前はどうなるんだよ」

「わかんね。でもたぶん、死ぬんじゃね?」

「死ぬって……おま、そんな簡単に……」


 こいつは俺から栄養を得ているのだろうか。

 もし切っても生きていられるなら、医者に頼んでもらったりできないだろうか。

 

「別に怖かねーよ。そもそも悪夢みたいなもんだしな。自分の意志じゃどこにも行けない。お前のエロい記憶漁るくらいしか楽しいことないし。……もうちょっとバラエティなんとかなんねーかな」 

「うっせぇわ!俺はな、遊びでそういうことしたりしないの!人の記憶をAV扱いしやがって……」


 俺たちの間に、沈黙が流れる。

 ひとりと、イボの間に。

 静寂を破ったのは、イボの方だった。


「それにお前、五十嵐さんとの初めての夜に、俺なんかがくっついてたら、良くないだろ。人面イボとか流石に彼女でもドン引きだ」

「は、はぁ?俺は別にそんな――」

「グダグダ言ってんじゃねぇ!オマエ、彼女のこと、好きだろ?」


 今日までの会話で、俺の彼女への好意はもう隠すようなことでもなくなっていた。

 

「それはまぁ……嫌いじゃないけど……」

「嫌いじゃないってレベルか?お前、気づいてないかも知んねーけど、毎日彼女の話してるし、電車の中でも、休憩時間も、隙あらば考えてんの筒抜けなんだからな」

 

 そうだった。イボの前ではプライバシーなんてものはない。

 

「しょーがないだろ……抑えようとしたって、湧いてくるもんはどうしようもないんだよ。でも、だからって俺は何も行動に移してないし――」

「なんで行動しねーのよ」


 言葉に詰まる。

 理由と言われたらそれは、自分にその資格がないと思うから。釣り合わないと思うから。相手にはきっと既にパートナーがいると思うから。


 ……つまり、俺が臆病なだけだ。


「いや、だとしてもだよ。俺が彼女のこと好きだとしても、いきなり夜がどうのこうとか、そんなの不誠実だし――」

「彼女に触れてみたいんだろ?」


 直截的に過ぎる。

 

「そ、そりゃまぁ、触れたくないわけじゃないけど……」

「別にそれ自体悪いことじゃねーだろ」


 悪いことではないのかもしれない。

 でもそれは、最初にあってはならないものだ。

 順序というものがあるし、順序以前に、好きだからといって絶対に肌を重ねなければいけないなんてことはないんだ。

 彼女の気持ちがまず一番大事だ。

 

「あんまりガツガツしてんのは、彼女だって怖いだろうし……俺は、傷つけたくないんだよ……」

「そうやって逃げてんのな」

「逃げてる?は?ちげーよ、俺はあくまで相手を尊重したいだけで――」

「いーや、逃げてるね」


 どうしてこいつは、こんなに辛辣なんだろう。

 そんな責められるようなことか?

 俺、間違ったこと言ってる?

 

「思考停止してんじゃねーぞ。別に野獣になれつってんじゃねーんだよ。押すか引くか、どっちかだけじゃねーだろ。駆け引きしろって言ってんじゃねーぞ?人間ってのはな、そもそも矛盾した生き物なんだよ。特に彼女は繊細そうだしな」


 イボのくせに俺よりよっぽど人間をよく分かってる。

 あれだろうか、前世が人間で人生何周目かしてるんだろうか?


「彼女の気持ちにも、お前の気持ちにも、ちゃんと向き合えつってんの!お前はなんでもかんでも自分で勝手に決めすぎるんだよ。彼女に笑ってて欲しいお前も、触れたいお前も、ぜんぶお前なんだよ」


 正論、なのかもしれない。

 でも俺はそんな風に器用には生きられない。

 きっと傷つける。

 なら自分が我慢する方がいいに決まってる。

 

「……もう、あんな先輩のことなんか忘れちまえ。変な成功体験つくってんじゃねーよ。無償の愛なんて、お前の自己満足でしかねーんだよ。そんなもん、ただの呪いだ」


 はっとした。相手が人間なら、相手の目を見つめたい気分だった。

 でも相手はイボだ。俺の尻にくっついてる、分身だ。

 

「また覗きかよ。趣味わりぃな」


 なんだか一気に疲れが来た。

 俺は冷蔵庫からギネスを一本出してきて開けた。

 窓を開けても、もう虫の声は聞こえない季節だ。

 みんな、どこに行ってしまったんだろうか。


 大学の頃、好きだった先輩がいた。

 生き物が好きな人で、口癖は「人類は滅亡すべき」。

 相手には彼氏がいて、でも俺はワンチャン狙ってよく彼女を飲みに誘った。

 月に一回の、癒しの時間。彼女はいつも、梅酒ばっかり飲んでた。

 俺にも当時、だいぶ冷え切ってはいたけど、つき合ってた子はいたし、お互い良い愚痴の聞き役だった。

 まぁ割合としては 7:3で相手の愚痴が多かった気がするけど。

 愚痴というか、ほとんど惚気みたいな話を延々と聞かされて、自分はマゾなのかと思った。

 でもだんだん、楽しそうに話す先輩の顔を見るのが、好きになってる自分がいた。

 

 夏季休暇のとき、改札前で、たぶん帰省しようとしてたその彼氏を見送ってる先輩をたまたま見つけて、俺は物陰に隠れて見守った。

 その時の先輩は、すげぇいい顔してて。正直、抉られたけど、でもその時に完全に腹は決まった。

 俺はこの人の幸せを祈れる男でいたいって。

 いまの彼女と別れて本気でアプローチする勇気もないクソ野郎の、ヒーロー気取りの戯言なのは分かってた。

 俺は、負け戦はしない主義だった。

 だから、これでいいんだって。


 先輩の卒業間際、俺は早生まれの先輩の誕生日に、彼女の好きな花を贈った。

 綺麗で 残らないものが良いと思ったから。

 先輩はお礼の手紙をくれた。

 いまでも、引き出しの奥に仕舞ってある。

 生成りの封筒に、いもむしのシール。俺が、はらぺこあおむしが好きなのを覚えてくれてたんだと思う。

 

 手紙では、花は三週間くらいもって、子どもの頃の将来の夢は、お花屋さんだったんだと、教えてくれた。

 それから、自分はたくさんの人に支えられてて、俺もその中の大切なひとりなんだと。

 自分のつまらない話や、愚痴、アホな話をひとつひとつ聞いて、真剣に考えて伝えようとしてくれる俺のことを、見習いたい。

 そんな風なことが、書いてあった。


 ふたりの最後の飲み会の日の帰り道、先輩は俺に余計なことを言った。

 たぶん、一年前なら、俺はその誘いに乗ってたかもしれない。

 でも、茶化して躱わした。

 俺は最後まで、先輩の良き聴き上手な後輩でいたかった。

 もっと自分を大事にして欲しかった。

 

『むかしはこんなんじゃなかった』


 先輩はそんな風に言ってたけど、純真さの欠片がちゃんと残ってるのを、俺は知ってる。

 だからその煌めきを、もっと信じて欲しかった。

 先輩の、大事な人のために。


 だから、先輩からの手紙は、俺にとっての証だ。

 俺はちゃんと、誰かの幸福を願うことができるんだって。


「だって、じゃあ、どうすりゃ良かったんだよ?」

「別に、正解なんかねーよ。お前はすげぇと思うよ。でもな?囚われるなって、ことなんだよ。そんなんに、慣れて欲しくねーんだよ」

「……お前、泣いてんのか?」


 そっとイボに触れると、ぬるりとした。

 なにか変な汁が垂れていた。

 え、これ大丈夫やつかなと一瞬心配になった。


「……本当に、いいんだな?」

「男に二言はねぇよ」


 俺は内心、イボじゃん、と思ったが言わなかった。

 オトナとして。


 *

 

 俺は皮膚科で紹介状を書いてもらった。

 人面イボにドン引かれるかと思ったけど、反応は普通だった。

 もしかすると、あの顔は俺にしか見えないのかもしれないと思った。


 手術は呆気なく終わった。

 一週間後に抜糸して、それでおしまい。

 切ったイボは病理検査され、「検体は安全・倫理上、患者への返却は不可」ということだった。

 俺の一部だったのに、おかしな噺だ。

 

 だから俺に残されたのは、すっと一筋、尻に残った傷跡だけ。

 俺はそれがなんだか愛おしくて、イボとの毎夜の会話を思い出しながら、たまに撫でた。


 そうしてると、ちょっとだけ涙が出るのが、なんだか笑えた。

 イボのこと思い出して泣いてる俺、何?って。


 *


「ここ?手術したところって」


 シャワーを浴びて出てきた五十嵐さんが、うつ伏せで寝ていた俺の尻に触れる。


「そう。自分だと全然見えないし、気にならないんだけど。……なんか、ごめんね」

「どうして謝るの?……わたしこれ、嫌いじゃないよ」


 そう彼女が言った後、傷のあたりにかすかな痺れと、熱と。


 追悼としては、きっと十分。


 


 教訓① 恋を始めるのは あなた自身


 教訓② 気になる症状は 早めにお医者さんに相談を





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ようすのおかしな噺 橘夏影 @KAEi_Tachibana

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