第46話 改良
「なんでこんなに無理難題ばかり最近くるんだろう……」
机に突っ伏し、額を押さえながらユニリスは深くため息をついた。
視界の端で、魔術式の複雑な線と数字が、まるで嘲笑うかのように並んでいる。
「ユニリス、ぐちぐち言ってないでやるわよ」
鋭い声が飛ぶ。イレイザだ。
その声音は、容赦なく背中を押す鞭のようで、ユニリスは思わず背筋を伸ばす。
「いやなら、インスタントコーヒーと師匠おすすめのコーヒーゼリーあげないわよ」
イレイザの口元が、わずかに意地悪く吊り上がる。
「ちょっと待ってくださいよ。嫌とは言ってないですよ〜」
慌てて手を振るユニリス。
「ちょっと難しいなって思っただけです。だから休憩にはちゃんとください」
その言い方は、まるで駄々をこねる子供のようだ。
イレイザは思わず吹き出し、肩を揺らして笑った。
笑われた瞬間、ユニリスの頬がじわりと赤く染まる。
そのやり取りを、八重子が冷ややかな視線で見つめていた。
その視線は、氷の刃のように鋭く、二人の背筋をひやりとさせる。
ユニリスに新たな仕事が舞い込んだ。
八重子の若返り魔法の改良――それが今回の任務だ。
八重子一人でも可能な作業だが、「面倒くさい」というのが本音らしい。
だからこそ、イレイザに指示を出し、ユニリスと二人で完成させろというわけだ。
八重子はあくまで「問題や疑問があれば手伝う」程度の立場。
つまり、ほぼ丸投げである。
「レオンが待ってるから早くやって」
その一言に、二人は同時に心の中で叫んだ。――鬼だ。
王の勅命よりも、八重子の命令のほうがよほど怖い。
逆らうという選択肢は、最初から存在しない。
二人は気持ちを切り替え、術式に目を落とす。
若返り魔法の根幹は、治癒系魔法だ。
治癒とは、突き詰めれば時間を巻き戻す行為。
そこに遺伝子の調整が加わることで、失った手足すら再生できる。
ただし、生まれつき存在しない器官や部位は再生できない。
この魔法は、八重子が独自に開発したものだった。
「時間のコントロールがここの術式だから……ここで、この数字が……」
「この数字が時間軸に影響して……で、これが遺伝子の部分で……」
二人は額に汗を浮かべながら、複雑な魔術式を読み解いていく。
魔法を改良するには、まず現行の術式を完全に理解しなければならない。
八重子はあえて教えない。
それはスパルタのようでいて、実は合理的な方法だった。
――教えられた知識は覚えるだけ。
――自分で解き明かした知識は、骨の髄まで刻まれる。
それは魔術も、勉強も同じだ。
三時間が経過した頃、八重子が口を開いた。
「そろそろ休憩にしましょうか」
そう言って、亜空間収納から取り出したのは、艶やかな黒いコーヒーゼリー。
さらに、茶色いボトルに入った液体をイレイザに手渡す。
「今日はこのシロップを持ってきたから、コーヒーに入れるといいよ」
「師匠、これはなんですか?」
「ま〜入れてみたらわかるから」
八重子の口元に、意味深な笑みが浮かぶ。
インスタントコーヒーにシロップを垂らし、スプーンでかき混ぜる。
ふわりと立ち上る香ばしい甘い香りが、部屋いっぱいに広がった。
イレイザもユニリスも、思わず目を閉じて香りを堪能する。
「さぁ、飲んでみて」
一口含んだ瞬間、二人の瞳が見開かれた。
苦みと酸味の奥に、香ばしい甘みが溶け込み、舌の上で複雑に絡み合う。
「なんなんですか、このシロップは?」
「これはキャラメルシロップっていうのよ」
異世界おそるべし――。
ユニリスは心の中で呟いた。
インスタントコーヒーを至高と思っていたが、それをさらに昇華させるものがあるとは。
「こっちも食べてね」
八重子が差し出したのは、透明な容器に入った黒い揺れる物体。
そこに白いミルクをかけ、スプーンですくって口に運ぶ。
ぷるん、とした食感のあと、ほろ苦いコーヒーの風味が広がる。
ミルクのまろやかさがそれを包み込み、全く新しい味わいを生み出していた。
インスタントコーヒーにミルクを入れるのとは、まるで別物だ。
ユニリスは、この幸福感を数字で表すことなど到底できないと悟った。
「飲んだよね?食べたよね?」
八重子の声が、二人を現実に引き戻す。
「このキャラメルシロップとコーヒーゼリーを置いて行ってあげるから、次来る時までに完成させといてね」
――やられた。
イレイザは心の中で呻く。
ユニリスは崩れ落ち、床に手をついた。
「ちなみに、次はいつ頃いらっしゃる予定でしょうか?」
恐る恐る尋ねるユニリスに、八重子はさらりと答える。
「沙也と翔太次第だけど、早くて一か月後ぐらいかな」
一か月――それが期限だ。
出来なければどうなるのか。
イレイザの脳裏に、修業時代の記憶がよみがえる。
「イレイザ、明日までにこの術式を理解して私に説明しなさい」
「明日までですか?」
「今まで感覚で魔法を使ってるから理解が追い付かず、魔法の威力が上がらないのよ。出来なかったら特別訓練にするから」
「いや、特別訓練だけは嫌です。頑張ります!」
特別訓練――それは魔物の群れの中に一人放り出され、死にかけても回復魔法で無理やり戦闘を続行させられる地獄だった。
魔力が完全に尽きるまで、終わらない戦い。
何度も死の淵を覗いた記憶が、背筋を冷たくする。
「ユニリス、死ぬ気でやらないと……本当に死ぬわよ」
低く、しかしはっきりとした声が、静まり返った部屋に落ちた。
イレイザの瞳は、冗談の色を一切含まない。
その黒曜石のような眼差しは、まっすぐユニリスを射抜き、逃げ場を与えない。
わずかに開いた窓から、冷たい風が入り込み、紙の端をぱらりと揺らした。
その音さえ、やけに大きく響く。
ユニリスは、喉の奥がひゅっと細くなるのを感じた。
イレイザの言葉は、ただの脅しではない――そう直感する。
彼女の声の奥には、過去に何度も死線を越えてきた者だけが持つ、重く冷たい現実の響きがあった。
「……本当に、死ぬ……」
心の中で繰り返すたび、背筋を冷たいものが這い上がってくる。
イレイザの言葉の意味を、ユニリスは完全には知らない。
だが、なんとなく察してしまう。
それは、想像するだけで胃の奥が重くなるような、危険で、容赦のない訓練か、あるいは任務。
そして、それを回避する唯一の方法は――やり遂げること。
イレイザは腕を組み、ほんのわずかに顎を引いた。
その仕草は、これ以上の説明は不要だと言っているようだった。
彼女の背後に立つ影が、夕暮れの光に長く伸び、ユニリスの足元まで届く。
その影が、まるで鎖のように自分を縛りつけている気がした。
ユニリスは唇を噛み、視線を術式の紙へと落とす。
複雑に絡み合う魔法陣の線が、今はまるで生き物のようにうねり、挑発してくる。
――やらなければ、本当に命が危うい。
その確信が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
イレイザの言葉は、脅しではなく、警告だった。
そしてその警告は、ユニリスの心に深く刻まれた。
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