第47話 心の友

「おねーさん暇?」

「ねぇ~ちょっと~いいだろ~。少しぐらい時間くれよ」

「俺たちと遊んだら楽しいからさ」

――うっとおしい。

街灯の下、夜の湿った空気の中で、沙也は眉間に皺を寄せた。

人通りの少ない路地に差し掛かった途端、背後からまとわりつくような声。

振り返れば、にやけ顔の男たちが三人。距離を詰めるたび、安っぽい香水と酒の匂いが鼻を刺す。

(なんで私には、こういうのばっかり寄ってくるのよ…)

心の中で毒づきながら、沙也は視線を逸らす。

早くアルバートさんとデートしたい――その思いが胸を締めつける。

彼の穏やかな笑顔を思い浮かべた瞬間、目の前の現実が一層うっとうしく感じられた。

……

バチッ。

「いたっ!」

「静電気か? なんだこの女…」

男たちが顔をしかめ、互いに顔を見合わせたかと思うと、舌打ち混じりに走り去っていった。

沙也の指先には、淡く青白い火花が散っていた。――魔法で電気を起こしたのだ。

だが、次の瞬間。

パリンッ。

「え?」

近くの電飾看板が、乾いた音を立ててひび割れ、ガラス片がぱらぱらと地面に落ちた。

慌てて沙也はその場を離れる。足音が夜道に響き、胸の鼓動が早まる。


自宅に戻り、玄関のドアを閉めた瞬間、全身から力が抜けた。

「はぁ……今日は最悪」

靴を脱ぎ捨て、ソファに沈み込む。

変なナンパばかり。もっとマシな相手ならまだしも、アルバートさんよりいい人なんて見たことがない。

早く会いたい――その一心で、気持ちを切り替えようとする。


日課の魔法練習を始める。

今日は指先の周りに風を回す訓練だ。

八重子から「害になりにくい練習法」として勧められたもの。

最初はそよ風程度しか出せなかったが、今では指先にまとわりつく風が、はっきりと渦を巻く。

(もっと速く、もっと細かく……)

――ガチャン。

「あっ」

集中が一瞬途切れた。

指先の風が暴れ出し、部屋中の紙や小物を巻き上げ、カーテンを大きく揺らす。

(やっちゃった……)

八重子の声が脳裏によみがえる。

『調子にのって威力を上げてはだめだよ。そんな時に集中が少しでも切れたら暴走するからね』

今日のナンパのせいで、集中力は散漫だった。

「片付け……面倒だな」

八重子に手伝ってなんて言えない。


最近、日々が変わらない。

仕事をこなし、同じ魔法の練習を繰り返す。

以前は毎晩のように飲み歩き、それが生きがいだった。

だが今はアルバート一筋。過去のトラブルもあり、飲み会も控えている。

(正直、飽きてきたな……異世界行きたい)


ピンポーン。

「……あれ?」

誰だろう。

ドアフォンのカメラを見ると、そこには八重子と翔太。

「え!?なんで?」

扉を開けると、八重子がにやりと笑った。

「そろそろかな~って思ってさ」

「え?何が?」

二人ともジャージ姿。翔太は手ぶらで、八重子はコンビニ袋を提げている。

「それより入っていい?」

「え?今、散らかってて……」

「わかってるよ」

(なにがわかってるの?)

「どうせ魔法失敗したんでしょ」

図星だった。

八重子とは長い付き合い。沙也のことは手に取るようにわかる。

だからこそ、片付けがてら飲もうと翔太を連れてきたのだ。

「さぁ、さっさと片付けて飲みましょう」

胸の奥がじんわりと温かくなる。

「なぁ、俺もいいのか? 女の子の部屋に俺みたいなおっさんが入っても」

翔太が遠慮がちに言う。

「何? 私の家は良くて、沙也の家はダメってこと?」

「いや、そういうんじゃなくてさ……ほら、俺と八重子の仲だろ?」

二人のやり取りを見て、腐っていた心が少しずつ解けていく。

「別に構いませんよ。翔太が私の下着をあさらないなら」

意地悪く笑うと、翔太は苦笑い。

「触らないよ。捕まりたくないし。それに今は……」

「え~、なんです? 今は?」

「なんだっていいだろ」

八重子には聞こえていない。

「ちょっと何話してるの? 早く手伝って」

沙也は翔太の耳元で「応援してるんで頑張って」とささやく。

驚いた顔の翔太を横目に、「ごめ~ん、すぐ手伝うから」と八重子のもとへ。


片付けが終わると、テーブルにコロナビールが並んだ。

「ライム売ってなかったからレモンね」

レモンを串切りにし、瓶の口に差し込む。

三人同時に押し込み、瓶を傾ける。

「おいしい」

「うまい」

顔を見合わせ、笑い合う。

(異世界に行きたいわけじゃない。飽きてたわけでもない。この三人で笑う時間がなかったから、心が腐ってたんだ)

「でも、よくわかったね?」

「何年友達してると思ってるのよ」

「確かに」

「でも来てくれて、もやもやがすっきりした」

「良かった。沙也って昔から飽き性だし、最近飲み会もしてないでしょ」

「でも今は、こうして二人と飲めるから、飲み会なんてなくても楽しい」

「なんか嬉しいこと言ってくれるね」


翔太が瓶を置き、ふと真面目な声になる。

「ところで、来週はもう年末休みだろ。そろそろ向こうに行かないか?」

「あ~そうだね。でも私はいいけど、沙也は大丈夫?」

「大丈夫って何が?」

「毎年大晦日は男と過ごしてたじゃない」

「今はアルバート様一筋だから誰とも過ごしません!」

八重子が笑い、「じゃあ長めに行こうか。向こうも年越しのお祭りあるし」

「え? お祭り?」

「年が変わると生誕祭。レンス教のお祭りを各国でやるの」

「へぇ、楽しみ」


翔太が、手にしていたビール瓶をテーブルにコトリと置いた。

その仕草は、さっきまでのくだけた笑顔とは打って変わって、妙に落ち着き払っている。

背筋を伸ばし、腕を組み、少し顎を引く――まるで職場で部下を前にしたときの「矢野部長」の姿そのものだ。

「じゃあ――」

低く、しかしよく通る声。

「しっかり最後の仕事納めまでこなして、行くとするか」

その言葉に、八重子と沙也は思わず顔を見合わせる。

翔太の目は冗談半分のようでいて、奥底に本気の色が宿っていた。

「ミスしてトラブル起こすなよ」

一瞬、部屋の空気がピンと張り詰める。

さっきまでの笑い声が嘘のように、三人の間に短い沈黙が落ちた。

八重子は、胸の奥で小さく息を吸い込む。

(ああ、この感じ……職場で何度も聞いたあの声だ)

沙也も同じことを思ったのか、口元にわずかな笑みを浮かべながらも、背筋を正している。

「――はい!」

二人の声が、ぴたりと揃った。

その瞬間、張り詰めた空気がふっとほどけ、三人の間に温かな笑いが広がる。

沙也は、自分の声が思った以上に大きく、そして力強く響いたことに気づく。

(ああ、なんだろう……この感じ。まるで部活の掛け声みたい)

翔太は満足そうにうなずき、再びビール瓶を手に取った。

「よし、それでいい」

その声には、上司としての厳しさと、仲間としての信頼が入り混じっていた。

八重子が「じゃあ、年末まで全力で働いて、思いっきり楽しもう」と笑い、沙也も「うん!」と頷く。

窓の外では、冬の夜風が街の灯りを揺らしていた。

その光景が、これから訪れる年末の旅と祭りを、ほんの少しだけ先取りしているように見えた。

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