第45話 新たな風

王と聖王が、最近どうにもふっくらしてきた。

あれほど引き締まっていた聖王ヘインズは、今や腹回りが目立ち、頬も丸みを帯びている。

ギルシア王に至っては、豊かな髭の下に隠れてはいるが、二重顎がはっきりとわかるほどだ。

城内ではすでに噂が広まっていた。

――昼間から二人で酒らしきものを呑み、見たこともない料理を頬張っているらしい。

――時には廊下まで漂ってくる、恐ろしく食欲をそそる香りがするらしい。

厨房の者たちも、あの匂いは自分たちの作る料理ではないと首をかしげている。


玉座の間の奥、重厚なカーテンを閉め切った小部屋。

二人は低い卓を挟み、湯気の立つ徳利と、見慣れぬ形の皿を前にしていた。

香ばしい匂いが、酒の香りと混ざり合い、部屋の空気を甘く満たしている。

「なんでこんなにうまいものばかりなんだろうな」

ギルシア王が、頬を緩めて盃を傾ける。

酒の透明な液面が、蝋燭の灯りを受けてゆらゆらと揺れた。

「本当にそうだな」

聖王ヘインズも、口の端に笑みを浮かべながら盃を空ける。

「だが、そろそろ収納内のストックも減ってきていないか?」

「確かに……持ち帰った当初に比べたら、すでに三分の一ほどしか残っていない」

ギルシア王は、亜空間収納の中身を思い浮かべ、眉をひそめた。

「そろそろ異世界に行く計画を立てるべきか」

「いや、行きたいのはやまやまだが……師匠がこちらに来て、許可を得てからにしなければ」

「確かに。もし賢者様に禁止にでもされたら、たまったものではないからな」

二人は盃を合わせ、再び酒を口に運ぶ。

頬はすでに赤く、呂律も少し怪しい。

蝋燭の炎が揺れるたび、二人の影も壁に揺れた。


「そうだ、そろそろ以前話していた計画を進めてはどうだ?」

「ん? 計画?」

「なんだギルシア、忘れたのか? ボケるには早すぎないか?」

「ボケてはおらぬわ! それより何の計画だ? そのような話をしたか?」

「異世界に行った際に、食べ物と飲み物を我々の世界で研究すべきかという話だ」

「ああ……そのような話をしたな」

「やはりボケてきたか?」

「ボケてなどおらぬわ!」

笑いながらも、二人の盃は止まらない。

酒の香りがさらに濃くなり、部屋の空気は甘く、重くなっていく。



一方その頃、城内では別の空気が漂っていた。

最近、国政はほぼ大臣たちに任せきり。

家臣たちの間では「このままでは国が傾くのでは」と不安の声が上がっている。

だが、大臣たちの中には、むしろ今の状況をありがたく思う者もいた。

――以前の会議で決まった「バーベキュー開催に関する法令」が、全く進んでいないのだ。

王たちが呑んだくれている間は、その件を突っ込まれずに済む。


その日、玉座の間に一人の男が呼び出された。

片膝をつき、深く頭を下げる。

城の料理長、クルメルクである。

「クルメルクよ、急に呼び出して申し訳ないな」

「いえ、王の呼び出しとあらば、いついかなる時でも」

「先日のバーベキューでは、すばらしい活躍であった」

「なにをおっしゃいます。あれは賢者様と勇者様のお力があったことであります」

「謙遜するでない」

ギルシア王は、にやりと笑い、盃を置いた。

「そこでおぬしに、褒美を兼ねて一つ頼みたいことがあるのだ」

「ははー。ありがたき幸せ。何なりと」

――褒美と頼み事って、一緒になるものなのか?

クルメルクは心の中で首をかしげた。


ギルシア王が亜空間収納に手を差し入れる。

次の瞬間、ずしりと重みのある一升瓶が現れた。

瓶の中で、透明な液体が光を反射してきらめく。

「これは?」

「異世界の酒じゃ」

「名は……獺祭というらしい」

「はっきり言って、最高の酒じゃ」

「勇者様も、日本酒の中で一番うまいとおっしゃっておられたものだ」

「それをそなたに褒美として渡そう」

「ははぁ……ありがたき幸せ」

クルメルクは、口元が緩むのを必死で抑えた。

心の中では飛び跳ねたいほどの喜びが渦巻いている。

だが――

「そして、それを我が国でも作れるようにしてもらえるか」

「……は?」

「いま、な、なんとおっしゃいましたでしょうか?」

「その酒を、我が国で再現してみせよといったのじゃ」

――おいおいおいおいおい。

何を言ってるんだこの爺たちは。

異世界の酒を呑んで、味だけで再現しろって?

材料も製法もわからないのに? 馬鹿も休み休み言え。

さっきまでの喜びは一瞬で消え、クルメルクの胸に重い悲壮感がのしかかる。


「まぁギルシアよ、いきなりそれは、ちと厳しいではないか」

ヘインズ聖王が助け舟を出す。

「クルメルクよ、今度賢者様が来られるまでに、自分の舌で必要と思われる材料を決めよ。そして賢者様が来られたら、製法などを聞くが良い」

「おぬしも、我が国一の料理人であろうからな」

「……は、かしこまりました」

断れるはずもない。

――俺は料理人であって、酒職人じゃないんだが。

クルメルクは肩を落とし、一升瓶を抱えて玉座の間を後にした。


ホーデンハイド王国に、新しい風が吹き始めている。

その風がもたらすのは、さらなる発展か、それとも崩壊か――

今はまだ、誰にもわからない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る