第44話 魔力

しぶしぶではあったが、八重子は机の上に広げた魔法陣の設計図を前に、若返り魔法の構築をやり直していた。

指先に伝わる羊皮紙のざらつき。インクの匂いが鼻をくすぐる。

面倒くさい。正直、やりたくない。

だが、ふと脳裏に浮かぶのは――あの時、若返った翔太の、少年のように無邪気な笑顔。

その笑顔を思い出すと、気づけばペン先が紙の上を走っていた。

とはいえ、八重子は根を詰めて一気に仕上げるタイプではない。

コツコツと積み上げるのは得意だが、集中しすぎると逆に疲れてしまう。

結果、作業はなかなか進まない。



「獅子堂さん、あの件、進捗はどうかな?」

不意に背後から声がかかり、八重子はパソコンに向かう手を止めた。

振り返ると、矢野部長――いや、翔太が、にこやかに立っている。

「ん? あの件とは?」

「個人的に頼んでた、例の件だよ」

「部長が何か個人的に依頼されましたでしょうか?」

翔太は、いたずらっ子のように顔を近づけてきた。

「若返りの」

――ぎょっ。

八重子の心臓が一瞬跳ねる。

職場でその話をするなんて、公私混同も甚だしい。

かつては仕事一筋で頼れる上司だった翔太は、一体どこへ行ってしまったのか。

「あの~部長、それは……まだまだです」

呆れを隠さずに返すと、翔太は少し肩を落とし、背中を丸めて去っていった。

その背中が、妙に寂しげに見える。

――簡便してよ。職場でまでプライベート案件の話かよ。

そう思いながらも、八重子の胸の奥に、チクリとした感情が残った。

あれほど期待しているのだ。

嫌だと思いつつも、あの背中を見てしまうと、なんとかしてあげたい気持ちになる。


異世界に行って、イレイザに手伝ってもらえばもっと早く完成するだろう。

だが、それも簡単ではない。

帰還魔法の片道には、八重子の魔力の半分を消費する。

失った魔力の回復には丸一日。

理屈の上では、二日待てば再び行ける計算だ。

だが――沙也が経験したように、一度に大量の魔力を使うと、後から全身を押し潰すような疲労感が襲ってくる。

あのだるさを思い出すだけで、足が遠のく。

だから異世界に行くのは、せいぜい一か月か二か月に一度だった。


昼休み。

食堂のざわめきの中、トレーを持った沙也が八重子の向かいに腰を下ろした。

「今日は何食べるの?」

「今日は、フレッシュサラダのサンドイッチにしたよ」

「それでお腹膨れるの?」

「八重子も、もう少し体形気にしたら?」

――ガーン。

八重子は思わず箸を止めた。

「えええ、私、太ってきた?」

「う~ん……」

沙也は、値踏みするように八重子の全身をじろりと見た。

「ちょっとね」

「ちょっと……もう今日お昼食べるのやめる」

ぐ~~~。

無情にも、八重子の腹が鳴った。

頬が熱くなる。

「無理じゃない?」

「少しだけにするから……」


「まじめな話なんだけど」

「ん?」

「毎日、家で練習してるんだけど」

「うん」

「すっごいお腹すくんだよね」

「そうだと思うよ。運動したのと同じようなものだからね」

「やっぱりそうなんだ」

「あんまりお腹すくから、間食が増えて……ちょっとウエストがきつくなってきたんだよね」

「え? そのウエストで?」

沙也のスタイルは、誰が見ても羨むほど整っている。

出るところは出て、引っ込むところはきゅっと引き締まっている。

「嫌味?」

冷たい視線を向ける沙也。

「違うよ~本当なんだって」

笑いながら言われても、八重子の胸の奥に小さな苛立ちが芽生える。

それでも、うどんをすすって気を紛らわせた。

「八重子だってスタイルいいじゃん」

事実、八重子も社内では美人でスタイルが良いと評判だ。

二人が並んで歩けば、遠くから眺める男性社員は多いが、近づく者は少ない。

甘える沙也と、はっきり物を言う八重子――その組み合わせが、近寄りがたい空気を作っていた。


「私もご一緒していいかな?」

声とともに、矢野部長(翔太)がサラダだけを持って八重子の隣に座った。

「どうぞ」

二人は、翔太のトレーを見て目を丸くした。

「え? サラダだけですか?」

「ダメかな?」

「ダメとかではなく、意外で」

「以前はもっと食べてませんでした?」

「最近ちょっとダイエットをね……」

「「ええええ?」」

驚きの声が重なる。

「何かあったんですか?」

「そういうわけではないが……頭は治せないが、体形は今からでもなんとかなるかなって思ってな」

確かに一理ある。


沙也は、ふとひらめいた。

――これは、矢野部長(翔太)、八重子のことが気になってるな。

くっついたら面白いのに。

小悪魔のような笑みが、沙也の口元に浮かぶ。

「どうしたの? 沙也」

「ん? ううん、なんでもないよ」

訝しげに覗き込む八重子。

沙也は慌てて表情を戻した。

――これは応援しなきゃ。

八重子も、最初の頃みたいに嫌がる素振りが減ってきてるし。


「もうちょっと待ってね。あと、会社ではあの話はよしてよ」

「あ~ごめんごめん。どうしても気がせってしまって」

「何の話?」

「若返り」

「あ~、なるほど」

沙也の脳裏に、ふと考えがよぎる。

――若返り魔法をかけたら、私も二十歳くらいに戻れるのかな?

興味が湧く。

もし自分が使えるようになったら……それって最高じゃない?

あ~もっと魔法練習しなきゃ。

でも、魔力を使うとお腹が減る。

食べれば太る。

でも練習しないと上達しない。

頭を抱える。

「大丈夫?」

二人が心配そうに覗き込む。

「若返ったら、痩せれたりする?」

「え!?」

「完成した魔法によるかな」

「痩せて若返りたい」

――沙也もかよ!

八重子は、心の中で大きくため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る