第19話 王様困惑

「……本当に大丈夫だろうか?」

「相手はヒュドラだぞ。」

「いや、騎士団と魔法師団が総勢二十名いる。何とかなるだろう。」

玉座の間の片隅で、家臣たちが小声で囁き合う。

その声音には、期待よりも不安が色濃く滲んでいた。

無理もない。いくら“勇者”と呼ばれる存在でも、ヒュドラを相手に全員無事で帰還できる保証など、どこにもないのだ。

そもそも、魔王討伐時の全盛期の勇者と賢者の実力を、この時代の誰も見たことがない。

勇者が賢者と共にパーティーを組み、魔王を討ち果たしたのは数百年前の出来事。

もはやおとぎ話の域であり、現実味を帯びた記憶として残っている者など一人もいない。

ゆえに、人々の強さの基準はあくまで騎士団と魔法師団だ。

騎士団長は“現剣聖”と呼ばれ、副団長アルバートも“次期剣聖”と名高い。

それでも、ヒュドラ討伐となれば心配するなという方が無理がある。

ギルシア王は、玉座に腰掛けたまま黙ってその声に耳を傾けていた。

賢者ハチと勇者レオンから告げられたのは、ただ一つ――

「ヒュドラ肉の毒抜きと調理の準備をしておけ。それと……二時間後にパーティーだ。美味しいものを用意しておけ。」


……二時間後。


その言葉に、場の空気が一瞬止まった。

湿地帯まではワイバーンで片道三十分。往復で一時間。

残り一時間でヒュドラを討伐し、解体し、肉を持ち帰る――そんな芸当が可能なのか。

過去にもヒュドラ討伐の記録はある。

だが、その時は剣聖を含む騎士団十名で挑み、一時間かけてようやく仕留めた。

しかも十名中、重傷者三名、軽傷者五名。死者が出なかったのは奇跡とまで言われた。

解体も容易ではない。

全身に毒を持ち、皮膚は分厚い鱗に覆われ、通常の剣や包丁では傷一つつかない。

特殊な魔法処理を施した魔剣を使い、十名がかりで三十分はかかる代物だ。

それでも――

「賢者ハチ様の言葉に間違いはない」

ギルシア王はこれまでの経験からそう信じていた。

玉座の間では不安が渦巻く一方、城の庭園では着々とパーティーの準備が進んでいた。

街へ新鮮な果物を買いに走るメイドたちの姿も見える。


八重子から料理長への指示は明確だった。

• 庭園で薪を使って火を起こすこと。

• その火の上に鉄板を置き、温めておくこと。

• 網付きの鉄板があればなお良い。

• 美味しい果物を用意し、氷の上で冷やしておくこと。

• そして、八重子が亜空間収納から取り出す食材を調理すること。

そう――八重子は、この世界には存在しない“バーベキュー”をやろうとしていた。


この世界における野外調理といえば、せいぜい野営時に干し肉を軽く炙る程度。

長期遠征やダンジョン探索では、干し肉と硬いパン、水が基本だ。

魔物をその場で調理すれば匂いで他の魔物を引き寄せ、命取りになる。

だからこそ、手の込んだ料理など作る余裕はない――それが常識だった。

料理長は指示通り火を起こし、鉄板を温めながら、八重子が出した食材の処理に取りかかる。

だが、見たこともないものばかりだ。

丸い金属の容器――賢者様は「缶詰」と呼んでいたが、どうやって開けるのか見当もつかない。

巨大な魚の頭らしきもの――「マグロの頭」だと言われたが、こんな硬そうな頭に食べられる部分などあるのか。

包丁を握る手が止まり、料理長は深くため息をついた。

「……賢者様、早くお戻りくださいませ」



この世界には、万物を形づくる四つの元素をもとにした魔法が存在する。

火、水、土、風――それぞれが自然の力を引き出し、術者の意思で操られる。

火はその名の通り炎を生み、焼き、照らす。

水は流れを呼び、潤し、時に命を奪う。

だが、よくある誤解として「氷も水の一部ではないか」と思われがちだが、この世界では氷を生み出すのは極めて難しい。

水を凍らせるには高度な制御と莫大な魔力が必要で、魔法使いの中でも上位の者しか成し得ない。

ゆえに、氷は貴族の宴席ですら滅多にお目にかかれない贅沢品だ。

氷がないということは――酒は常温、食材の長期保存も困難。

結果として、干し肉や乾燥保存食が旅人や兵士の常備食となる。

土は大地を操り、壁や武器を生み出す。

風は空気を裂き、矢よりも速く敵を貫く。

この二つに加え、火と風の組み合わせが戦場では主流の魔法体系だ。


賢者ハチと勇者レオンが、それぞれ討伐へと出発する少し前のこと。

「……本当に、なんてことを」

料理長は庭園に立ち尽くし、目の前の光景に呆れ果てていた。

そこには、八重子が出現させた巨大な氷塊が鎮座していた。

まるで小さな岩山のような透明の塊。その冷気が庭園の芝を白く曇らせている。

「この氷で飲み物を冷やして。果物はふちの方で冷やしておいて」

八重子はそう指示を出し、さっさと別の準備へと向かってしまった。


「いち、にー、いち、にー!」

庭園の一角では、数名の家臣が大きな酒樽を氷の上に載せ、樽の下に通した紐を両側から交互に引っ張っていた。

樽はゴロゴロと回転し、氷の冷気を受けながら汗だくの男たちの間を揺れる。

「……俺たち、何してるんだ?」

「こんなことで本当に冷えるのか?」

「いや、これ絶対重労働の嫌がらせだろ……」

ぼやきが漏れるが、手は止まらない。

これは八重子が指示した“急速冷却”の方法だった。

理由は説明されていない。ただ「やれ」と言われたからやっているだけだ。


額から汗を滴らせながら紐を引き続ける家臣たち。

その様子を見たギルシア王と聖王は、思わず近くの者に尋ねた。

「……何をしているのだ、あれは」

「賢者様のご指示でございます」

それ以上の説明はない。

八重子は方法だけを伝え、理由は一切語らなかったのだ。

庭園では氷の冷気と人々の熱気が入り混じり、果物は白い息を吐くように冷えていく。

一方で、理由も分からぬまま駆け回る家臣たちの姿に、ギルシア王は深くため息をついた。

「……あの方の考えることは、やはり常人には計り知れぬ」

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