第16話 おいしいものをもとめて
「当たり前でしょ。前から何度も言っているように、私は異世界から来たの。そして帰るのが目的で魔法を極めたんだからね。帰れた今となっては、たまにこうして遊びに来るくらいしかしないわよ。今日は特別に、私の親友を連れてきただけ」
八重子はさらりと言い放つ。
沙也にとっては、これは半分“傷心旅行”のようなものだ。
矢野がなぜもう一度この世界に来たがったのかは分からないが、一人で沙也を連れてくるより、もう一人同行者がいた方が気が楽だった。
「それよりギル、今ヒュドラのステーキって食べられる?」
八重子は、かつての“美味しかった肉ランキング”を脳内でめくりながら、ギルシア王に尋ねた。
「残念ながら、今は肉がありません」
ギルシア王は首を横に振る。
いくら王族といえど、ヒュドラの肉など常備できるものではない。
周囲の家臣たちは「ヒュドラの肉なんて本当に手に入るのか?」「そもそも倒せるのか?」と心の中でざわついていた。
「そっか……ヘインズ、どこかでヒュドラが出たって聞いてない?」
八重子が視線を向ける。
「南方の湿地帯で目撃情報があったと、教会信徒から報告はありました。ただ、今のところ民に害はないので放置しておりますが……」
ヘインズ聖王は淡々と答える。
――この人、本当に食べたいだけで聞いているのではないか?
聖王は内心でため息をついた。
八重子の視線が周囲を一巡し、ぴたりと矢野に止まる。
「え!? 俺? まじ? 俺行くの?」
矢野が慌てて声を上げる。
部長職の威厳などどこへやら、口調はすっかり昔のままだ。
「沙也に食べさせてあげたいよね?」
八重子は矢野の顔にぐっと近づき、目を逸らさせぬように凝視する。
その圧力は、物理的な重みすら感じさせた。
「八重子……ヒュドラって何? 食べられるの?」
沙也は恐る恐る尋ねる。
肉と聞けば哺乳類を想像するが、名前からして不穏だ。
頭の中で疑問が渦を巻く。
「毒抜きしたヒュドラのステーキは、松阪牛並みにおいしいよ」
八重子は満面の笑みで答える。
「え? 毒? 毒あるの? 本当に食べられるの?」
沙也の中で不安が膨らむ。
――ふぐみたいに毒を取ってから出すの? それとも肉自体に毒があるの?
異世界、やっぱり恐ろしい……。
「大丈夫だって、私の一押しなんだから。それよりレオン(矢野)、早く取りに行ってよ」
八重子が顎で指示を出す。
「まじで言ってるのか、ハチ? ヒュドラを俺一人で倒せと……」
矢野は呆れと恐怖の入り混じった声を出す。
勇者だった頃ならまだしも、今は五十歳のぽっちゃり体形。
――死にに行けってことか? こいつ、俺のことを昔の姿のまま見てないか?
「出来るのに、何を嫌がってるの?」
「そりゃあ、全盛期の俺なら出来たよ。でも今はおっさんだぞ。走ったら足もつれて転ぶくらいだぜ」
矢野は現実を突きつける。
「なら若返る?」
八重子の口から、あまりにもあっさりと、とてつもない提案が飛び出した。
場が静まり返る。
若返りの魔法など、この時代には存在しないはずだ。
――賢者は何を言っている? 若返れるなら誰もが望むだろう。本当にできるのか?
王も聖王も家臣たちも、息を呑んで八重子を見つめる。
「え!? 出来るの? 本当に? 出来るならやってくれ。そしたらヒュドラだろうがドラゴンだろうが取ってきてやるよ……」
矢野の声は興奮でわずかに上ずっていた。
「あっ……でも装備は貸してくれるよな?」
矢野の胸の奥には、若返りたいという密かな願望があった。
実際、かつてイレイザの魔法で若返り、元の世界に戻った経験がある。
いつ八重子に切り出そうかと迷っていたが、まさかこんな形でチャンスが訪れるとは。
王も聖王も家臣たちも、ただ呆然とそのやり取りを見ていた。
――賢者様って、もっと静かで威厳のある方だと思っていたが……。
存在しないはずの魔法を当然のように口にし、しかも実行できそうな気配を漂わせる。
もはや意味が分からない。
これが“賢者”という存在なのか――誰もがそう思わずにはいられなかった。
アルバートとイレイザは、すでに八重子の“素”を知っている。
だからこそ、彼女の突拍子もない発言にも「やっぱりな」と内心で頷いていた。
だが、周囲のほとんどは――なんなんだこの会話は?――と頭の中に疑問符を浮かべていた。
ヒュドラ――それは上位冒険者二十名、もしくは騎士団の上位十名をもってして、ようやく討伐可能な魔物。
三本の首からは毒と炎を吐き、肉にも強力な毒が宿る。
さらに、傷をつければ体液が溶解液のように飛び散り、鎧程度なら容易く溶かしてしまう。
だが、毒抜きを施した肉は絶品で、王族や一部の貴族しか口にできない贅沢品だ。
民に被害が出たときにのみ討伐依頼が出され、その副産物として肉が流通する。
「食べるためだけに命を懸けろ」と言われて受ける者など、まずいない。
そして、話題に上った“ドラゴン”――これはもはや伝説級の存在。
一体で国を滅ぼすとまで言われる魔物だ。
そんな存在を「一人で狩りに行く」と言い出す、小太りのおっさんと賢者のやり取りを、正気だと思う者はいなかった。
「フェアユンゴングスクア」
八重子が短く呪文を唱えると、矢野の身体が変化を始めた。
出っ張っていた腹がみるみる引っ込み、たるんだ肉は引き締まり、全盛期のような筋肉質の体へと変わっていく。
「「キャーーー!」」
イレイザと女性騎士、魔法士たちが同時に悲鳴を上げた。
八重子も思わず両手で顔を覆い、指の隙間から覗く。
痩せたことで、矢野のジャージも下着もずり落ち、下半身は丸裸。
当の本人は若返った喜びとみなぎる力に夢中で、それに気づいていない。
股間をぶら下げたまま飛び跳ね、腕を振り回し、力の感触を確かめている。
そのたびに、女性騎士やイレイザの目の前を“ぶらぶら”と通過していくのだった。
「レオン、早く服着て」
八重子は指の隙間から視線を逸らしつつ、亜空間収納から勇者用の装備を取り出して渡す。
それは魔王討伐の旅を終えたとき、矢野が「もういらない」と言って預けてきたものだった。
「あ!!」「え!?」
騎士団のあちこちから驚きの声が上がる。
「ゆ……勇者レオン様か?」
教会に飾られた勇者の肖像画と、目の前の男の顔が重なる。
ヘインズ聖王も、その顔を毎日のように見てきた。
魔王を討ち、この世界を救った救世主――見間違えるはずがない。
「やったーーー! 若返れた!」
「マジでハチ最高! これで俺の呪いも解いてくれたら完璧だな!」
矢野は満面の笑みで八重子に両手を広げ、飛びつこうとする。
「いや! マジでやめて! キモいから! 呪いのおかげで多少マシに恋愛感情がわいたかと思ったら、私にとか本当にやめて! キモイ、キモイ、キモイ!」
八重子はひらりと身をかわし、矢野はそのまま顔面から床にダイブ。
だが、さすが元勇者、それくらいでは傷一つ負わない。
残念そうにしながらも、装備を身につける。
「あの……勇者様……?」
アルバートが恐る恐る声をかける。
騎士団員にとって、勇者は憧れの象徴。
子供の頃に絵本で読み聞かされた英雄譚の主人公が、今、目の前にいる。
「おう! おう! 何? 何?」
テンション高く歩み寄る矢野。
「本当に勇者様で?」
「この装備と、この剣――オールクリーヴァを使えるのは勇者だけだぜ」
矢野は自慢げに伝説の剣を差し出す。
アルバートは剣を受け取り、振り上げようとするが――全く動かせない。
オールクリーヴァは勇者以外が握れば異様に重くなり、さらにバランスが変化して振ることすら困難になる。
副団長であるアルバートですら、この有様だった。
淡い期待はあっさりと打ち砕かれ、アルバートは剣を返す。
勇者とは、そういう存在なのだ。
矢野はオールクリーヴァを軽々と回し、背中に収める。
「さて、ヒュドラでも狩りに行くか」
「少々お待ちください」
ヘインズ聖王が声をかけた。
「勇者様もこの世界に戻られたばかり。何かあっては教会としても責任問題になります。どうか騎士団を引き連れて行っては頂けないでしょうか」
矢野は一人で十分だと思っていたが、教会の立場も理解し、承諾する。
「賢者様はいかれないのですか?」
ギルシア王が尋ねる。
「行くわけないでしょ。私は沙也と温泉行くから」
八重子はあっさり答えた。
その場の全員が、ぽかんと口を開ける。
こうして、騎士団十名と魔法師団十名、総勢二十名を従えた勇者レオン(矢野)のヒュドラ討伐隊が出発することとなった。
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