第15話 賢者とギルシア

「ギル、魔法の呪文には全部、ちゃんと意味があるのよ」

八重子――この世界では“ハチ”と呼ばれる賢者が、膝を折ってギルシアと目線を合わせ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

まだ五歳のギルシアは、真剣な顔でうんうんとうなずいた。意味のすべてを理解しているわけではないが、師匠の言葉の重みだけは感じ取っている。

ギルシアは王の子として生まれた第三王子。

生まれながらの立場は高いが、魔法の才はあまり恵まれていなかった。

それでも、明るく人懐こい性格は周囲の心を掴み、八重子もその笑顔にほだされて家庭教師を引き受けた。

以来、ギルシアは毎日、魔法の稽古の日を心待ちにしている。


「師匠、やっと火の魔法が少しできるようになりました!」

小さな足音を響かせ、ギルシアが駆け寄ってくる。

八重子はその頭をやさしく撫で、微笑んだ。

「すごい。うまく出来るようになったね」

ギルシアは魔法が不得意というだけで、決して“できない”わけではない――八重子はそう確信していた。

体内の魔力量は十分にある。基礎を固め、一歩ずつ積み重ねていけば、必ず優れた魔法使いになれる。

だからこそ、八重子は決して叱らず、小さな進歩も必ず褒める。

褒められた経験は、次の一歩を踏み出す力になると知っているからだ。


「今日は、水の魔法を勉強しましょう」

八重子はギルシアの様子を見ながら、ゆっくりと課題を切り出す。

「はい! 師匠!」

元気な返事とともに、ギルシアの顔がぱっと明るくなる。

彼にとって魔法の時間は、日々の中で最も楽しいひとときだった。

第三王子としての礼儀作法や学問は厳しく、剣術の稽古は苦痛ですらある。

だが、八重子はいつも笑顔で、できたことを褒めてくれる。

その温もりが、ギルシアを魔法へと駆り立てていた。


八重子のもとで魔法を学び始めて三年。

ようやく初級魔法をある程度使えるようになった。

とはいえ、それは一般的な魔法適性者なら半年で到達するレベル――初歩の初歩だ。

だが、八重子は速度など気にしない。

大切なのは、諦めずに続ける姿勢だ。

「師匠! 見てください!」

ギルシアが両手を前に突き出すと、透明な水の球がふわりと宙に浮かんだ。

八重子はその光景を見て、自然と頬が緩む。

「うん、いい出来ね」

その声に、ギルシアの胸が誇らしさで満たされる。


八重子は、自分のことを特別な才能の持ち主だと思ったことはない。

学生時代から、ただ毎日コツコツと積み重ねることだけを信じてきた。

異世界に来ても、その信念は変わらなかった。

その結果が“賢者”という称号に繋がったのだ。

ギルシアもまた、少しずつ魔法の幅を広げていった。

努力を重ねる姿は周囲の目を変え、かつて「出来損ない」と陰口を叩いていた者たちも、今では彼を支え、寄り添うようになっていた。

八重子はその変化を静かに見守りながら、心の中で思う。

――この子は、必ず立派な魔法使いになる。


ギルシアが十五歳のとき――王都を揺るがす知らせが駆け巡った。

第一王子の乗った馬車が事故に遭ったのだ。

「どうなっている!」

大臣が声を荒げる。

「王子のご容態は!?」

貴族の一人が慌てて叫ぶ。

玉座の間も廊下も、誰もが第一王子の安否を案じ、落ち着きを失っていた。

ギルシアは兄の寝台の傍らに座り、その手を握りしめていた。

兄の体は冷たく、呼吸は浅い。

――お願いだ、助かってくれ。

必死の祈りも虚しく、事故から一週間後、第一王子は静かに息を引き取った。

八重子にも治療の依頼があった。

だが、傷はあまりにも深く、即死に近い状態を延命していただけだった。

八重子はその事実を胸に秘め、最後まで手を尽くした。


第二王子は、生まれながらに病弱だった。

何度も死の淵をさまよい、走ることも、魔法を学ぶこともできない。

やがて彼は部屋から出ることを拒み、死の影を恐れながら閉ざされた日々を送るようになった。

精神は次第に蝕まれ、笑顔は消えていった。

ギルシアは何度も兄の部屋を訪れ、外へ連れ出そうとした。

だが、その努力は一度も実を結ばなかった。

第一王子を失った今、第二王子は唯一の兄。

だからこそ、仲良くしたかった。

しかし――

「二度と来るな。僕にかまうな!」

冷たい言葉とともに追い返され、それ以来、ギルシアが兄の部屋を訪れることはなかった。


十八歳のとき、当時の王――父から玉座を譲られた。

王は摂政として三十歳までギルシアを補佐したが、やがて老衰でこの世を去った。

第二王子は健在ではあるものの、病弱な体は変わらず、今も部屋に閉じこもっている。


ギルシアが王となったことを機に、八重子は家庭教師を辞退した。

「これからは自分の研究に専念する」と告げた八重子の言葉に、ギルシアは深い悲しみを覚えた。

ギルシアは八重子を慕っていた。

幼い頃から、母のように、そしてやがては一人の女性として。

年を取らない八重子の姿は、時を超えて変わらぬ存在感を放ち、その優しさは恋心へと変わっていった。

だが、王族である自分は、その想いを胸に秘めるしかなかった。

八重子はこの大陸において特別な存在――“賢者”であり、“不老不死の魔女”と呼ばれ、勇者と共に魔王を討ち、国々を立て直した英雄だ。

本人は「現代に帰る方法を探していたら、たまたま賢者になっただけ」と笑うが、その功績は揺るぎない。


やがてギルシアは、政略の一環として貴族の娘と婚姻し、八人の子をもうけた。

王としての務めを果たしながらも、心の奥底には、あの日の家庭教師の笑顔が今も鮮やかに残っていた。

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