第12話 賢者、異世界に戻る
「これが……八重子と部長が魔王を倒した世界?」
沙也の瞳が、まるで宝石のように輝いた。
澄み切った空には、巨大な影を落としながらワイバーンが悠々と飛び、遠くには二つの月のような惑星が並んで浮かんでいる。
空気はほんのり甘く、どこか金属の匂いが混じっていて、肺に吸い込むたびに胸の奥がざわめく。
見渡す限りの景色は、沙也が生まれ育った日本とはまるで別物だった。
「すごい……すごすぎる! ねぇ八重子、魔法って私も使える?」
興奮を隠しきれない声で沙也が問いかける。
「練習次第でできるようになるよ。だって沙也に教える先生は、この世界を救ったパーティーの一人で――この世界の賢者だから」
八重子は胸を張り、誇らしげに微笑んだ。
――やっぱり、沙也には魔法の才能がある。
賢者となってからの八重子は、魔法の失敗など一度もない。
それなのに、かつて沙也に掛けた記憶封印の魔法は、あっさりと弾かれた。
理由はひとつ。内に秘めた魔力量が常人離れしているからだ。
沙也が記憶を取り戻してから、八重子は考えの末その結論に行き着いていた。
「いや、俺だって少しくらい魔法使えるから。教えられるから」
横から矢野が割って入る。
なぜか八重子に張り合うその態度は、自分がかつて勇者だったという事実に酔いしれ、物語の主人公は自分だと信じて疑わない――いわゆる中二病的な感覚の産物だった。
「水野さんは、俺に教えてもらったほうがいいよね? だって俺、部長だし」
意味不明なマウントを取ってくる矢野。
「え~、部長の頭がバーコードじゃなかったら教えてもらったのに。残念」
沙也は舌を出し、からかうように笑った。
「くそ~~~! 俺だって昔はカッコよかったんだよ!」
矢野が吠えると、八重子は深いため息をつき、沙也は声を上げて笑った。
その笑顔を見て、八重子は――この世界に連れてきてよかった、と心から思った。
「街でも見て、食べ歩きしよう」
八重子が提案する。
「いっぱい食べるぞ!」
沙也が拳を握って意気込む。
「……食べ歩きでいいのか?」
矢野が首をかしげる。
数時間後。
石畳の通りを歩きながら、香ばしい匂いのする屋台を次々と巡った。
串焼き、揚げパン、スープ、果実酒――色とりどりの食べ物が並び、見た目はどれも魅力的だ。
だが、沙也の表情は次第に曇っていく。
「ねぇ八重子……何食べても、美味しくないよ」
がっかりした声が、通りの喧騒に溶けた。
八重子も、矢野も、予想していたことだった。
この世界の庶民の食事が、日本の食事より美味しいはずがない。
もちろん、王族や貴族の食卓には、日本を凌ぐ美味が並ぶこともある。
さらに、極めて稀に手に入る魔物の肉は、和牛すら超える旨味を持つ。
だが――そんなものは八、九割の人間には縁がない。
「ごめんね、沙也。これが異世界の現実なのよ。レオン(矢野)も私も、こんなのを何年も食べてたの」
八重子は残念そうに言った。
五百年をこの世界で生きた八重子にとって、食事はもはや栄養補給に過ぎなかった。
たまに本当に美味しいものに出会えるが、それは祝祭や特別な日だけ。
毎日味わえるものではない――だから、諦めていた。
沙也は串を見つめ、少しだけ笑った。
「じゃあ……美味しいものに出会える日まで、いっぱい歩いて探すしかないね」
その言葉に、八重子も矢野も、思わず顔を見合わせて笑った。
「そういえば、レオンって……部長のこと?」
沙也が首をかしげながら問いかけると、矢野は反射的に顔を手で覆い、耳まで赤く染めた。
「そうよ。矢野部長はね、中二病だから自分のことレオンって呼んでたんだよ」
八重子がニヤニヤと笑いながら、わざとらしく矢野を見やる。
「やめてぇぇぇ!」
矢野が情けない声を上げる。
「中二病じゃないし! こっちの世界はみんな横文字の名前だから、本名が恥ずかしかっただけだ」
必死の弁解。しかし、召喚されたあの日のことは鮮明に覚えている。
名前を聞かれ、とっさに口をついて出たのは――以前観た映画の主人公の名前。
それ以来、異世界では“勇者レオン”として通す羽目になった。
今思えば、もっとマシな名前はいくらでもあったのに……と、何度も後悔している。
「じゃあ、私もレオンって呼んでいいですか」
沙也が無邪気に笑いながら言う。
「うわぁぁぁ!」
矢野が頭を抱える。
「まぁいいじゃない。こっちの世界ではレオンで通そう」
八重子が軽く肩をすくめてなだめる。
正直、五十を過ぎたバーコード頭のおっさんが顔を真っ赤にして恥ずかしがる姿を、これ以上見続けるのは二人ともつらかった。
「じゃあ、お前はハチだからな」
矢野が八重子に向かって言い放つ。
「はいはい、いいわよ。どうせ他の人もそう呼ぶし」
八重子はさらっと受け流す。
自分だけが恥ずかしい思いをしていたと知り、矢野はやりきれない気持ちで唇を噛んだ。
「じゃあ、私は何にしようかな?」
沙也は、二人のやり取りを見て目を輝かせる。
――二人ともなんかカッコいい。私も芸能人みたいに別の名前で呼ばれたいな。
そんな軽いノリで考えている。
「やめときな、沙也」
八重子がやんわりと制止する。
沙也は頬をぷくっと膨らませた。
食べ物は正直あまり美味しくない。
それでも、沙也は見たこともない景色や珍しい食べ物に目を輝かせていた。
石造りの建物、通りを行き交う人々の服装――中には剣や盾を背負った者もいる。
中世ヨーロッパの田舎町に似ているが、魔法の存在が街並みに独自の発展をもたらしていた。
街路灯は魔力で淡く光り、昼間でも幻想的な雰囲気を漂わせている。
「あ〜、スマホがあればいっぱい写真撮ったのに」
沙也が名残惜しそうに呟く。
八重子と矢野は、異世界に来る前に沙也へスマホを置いてくるよう指示していた。
どこで情報が漏れるか分からない――それが命取りになることを、二人はよく知っていた。
沙也は子供のように通りを駆け回り、二人はまるで父親と母親のように後を追う。
八重子は、矢野の見た目が本当に父親にしか見えないことを少し残念に思った。
そんな中、街のざわめきがふっと止む。
煌びやかな馬車が、まるで空気を裂くように通りへ滑り込んできた。
気づけば、八重子たち三人は馬車を背に、騎士たちにぐるりと囲まれていた。
――なんだ? 俺たち何かやらかしたか?
矢野は眉をひそめ、騎士団らしき一団を警戒する。
しかし、捕まるかもしれないという不安よりも早く、沙也の視線が一点に釘付けになった。
あの顔――忘れるはずがない。八重子と一緒にいた、あの男。
「あ! 八重子と一緒にいたイケメン!」
「沙也……」
八重子は呆れたようにため息をつく。
「賢者様、お迎えに上がりました」
前に出た男の金髪は陽光を浴びて輝き、鎧には教会の象徴が刻まれていた。
その名を呼ぶまでもなく、八重子は知っている。
周囲の騎士たちが一斉に膝をついた瞬間、街の空気が張り詰める。
――アルバート。
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