第11話 疑問
「これは……夢‥かな。八重子と矢野部長が、あんなにかっこよく空を飛んでいくなんて」
沙也は窓辺に立ち、夜空を見上げながらぽつりと呟いた。
胸の奥に残る恐怖と安堵が入り混じり、現実感が薄れていく。
「私がこんなことになったから……きっと夢を見てるんだ。本当の私は、今頃……」
言葉はそこで途切れ、沙也は膝を抱えて泣き崩れた。
やがて、八重子の部屋の温もりと疲労に包まれ、そのまま眠りに落ちる。
八重子と矢野が部屋に戻ると、沙也は涙を流しながら眠っていた。
八重子は、記憶をいじる魔法が好きではない。
人は良いことも悪いことも含めて記憶があるからこそ成長できる――そう信じているからだ。
それでも、今だけは……。
八重子は静かに手をかざし、記憶を消す呪文を紡ごうとした。
その瞬間、沙也がハッと目を開き、八重子にしがみつく。
「夢じゃ……なかった。八重子ぉぉぉぉ……」
「沙也……悪い夢を見たんだよ。今、助けてあげるから」
八重子は沙也を抱きかかえ、優しく呪文を唱える。
淡い光が沙也の身体を包み、傷は跡形もなく癒えていく。
安堵の吐息と共に、沙也は再び眠りについた。
「ハチ……今日のことは、何もなかった。で、いいな」
矢野の低い声が、静かな部屋に落ちる。
「……私が沙也と飲みに行って、そのまま家で一緒に寝たってことでね」
八重子は短く答えた。
ありがとう――言葉にはしなかったが、八重子の視線がその想いを伝える。
矢野もまた、何も言わずにうなずいた。
二人は、そういう間柄だった。
あれから半年。
沙也は以前より、ふと考え込むような表情を見せることが増えた。
記憶は消し、身体は癒した。
それでも――心のどこかに、何かが残っているのかもしれない。
八重子は、そんな沙也を見ながら、わずかな不安を覚える。
毎朝、同じエレベーターに二人で乗る。
最近は、たわいもないドラマや音楽の話ばかりだ。
「最近、飲み会行きたいって言わなくなったね。何かあったの?」
沙也が不意に問いかける。
「うーん……なんか急にどうでもよくなったっていうかね」
八重子は笑って答える。
あれ以来、沙也が何かに巻き込まれるきっかけを作りたくない――その思いが、自然と足を遠ざけさせていた。
「そうなんだ。だったら今日、久しぶりに飲みに行かない? 矢野部長も一緒に」
沙也の突然の提案に、八重子は目を瞬かせる。
「え!? 部長も一緒に? なんで?」
頭の中に疑問符がいくつも浮かぶ。
現代で、男の上司と一緒に飲もうなんて、恋愛感情でもなければありえない――八重子はそう思っていた。
まさか、沙也が矢野部長のことを……?
「なんとなく三人で飲みたい気分なの。だめかな?」
沙也が甘えるように首を傾げる。
「……部長に聞いてみないと」
八重子は答えながらも、心の奥で半年前の出来事がかすかに蘇る。
だが――記憶は消した。あり得ない、と自分に言い聞かせ、その考えを押し込めた。
「行くぞ!」
気づけば、エレベーターの扉が開き、そこに矢野が立っていた。
「じゃあ、絶対定時上がりね!」
沙也は嬉しそうに笑い、駆け足で去っていく。
「部長……」
八重子が少し困ったように呟く。
「ダメだったか? いいじゃないか」
矢野はいつもの癖で鼻をかきながら答える。
八重子は、ただ静かにうなずいた。
「八重子〜♪」
沙也が手を振りながら、軽やかな足取りで八重子のデスクへやってきた。
「もうちょっと待って、あと五分で終わらせるから」
八重子はパソコンにしがみつき、必死にキーボードを叩く。
――なんでこういう時に限って、定時ギリギリで仕事が来るのよ。
内心の苛立ちを押し殺しながら、画面に集中する。
「獅子堂さん、水野さん、終わったか?」
矢野までデスクに現れた。
「お疲れ様です。獅子堂さん待ちです」
沙也はキリッとした表情で答える。
二人の視線が背中に突き刺さる。
仕事しているところを見られるのは、どうにも落ち着かない。
八重子は最後のメールを確認し、ようやく業務を終えた。
「お疲れ様です、カンパーイ!」
沙也が元気よく掛け声をかける。
「「カンパーイ」」
八重子と矢野もグラスを合わせ、生ビールを一気に喉へ流し込む。
「ふ〜」と声が漏れる。
今日は珍しい三人での飲み会。
しかも、沙也がわざわざ予約した居酒屋の個室だ。
幹事慣れしている沙也にとって予約は日常だが――部長と三人で個室、というのは八重子にとって妙に引っかかる。
料理が次々と運ばれ、テーブルは賑やかに彩られていく。
「あ、これおいしい」八重子は豆腐ステーキを頬張る。
矢野は二杯目から日本酒に切り替え、沙也はカシスオレンジを口にしていた。
「二人って、付き合ってるんですか?」
唐突な沙也の一言に、八重子はビールを吹き出しそうになる。
「え!?」
「どうして獅子堂君と私が付き合ってると?」
矢野はおちょこに日本酒を注ぎながら――こぼしつつ――聞き返す。
「八重子の部屋で手を繋いで、窓から空を飛んでたじゃないですか」
沙也の口から放たれたのは、強烈すぎる一言だった。
「え!? いや、付き合って……いや、飛んで……え???」
八重子は混乱し、言葉が迷子になる。
「……思い出したのか?」
矢野はおちょこと徳利をテーブルに置き、冷静に尋ねた。
「思い出したっていうのかな。八重子と飲んで、八重子の部屋で寝たはずなんだけど……違う記憶が重なってきて」
沙也はゆっくりと語り出す。
「すごく怖いことを思い出して……でも八重子と部長が私を助けてくれて、介抱してくれて。二人とも急に変な格好になって、部長は剣みたいなのを持ってて……知らない名前で呼び合って、そのあと二人で手を繋いで空に飛んで行ったの」
映画のワンシーンのような話だが、沙也は映画を見ない。
恐怖よりも、二人の熱い想いが心に残っている――だからこそ、確かめたくてこの場を設けたのだ。
ダンッ。
八重子が机を叩いた。
「決して手など繋いでいない!!」
「え〜、繋いだと思うけどなぁ」
矢野は八重子の反応を見て、内心でニヤリとする。
――これは面白い。このまま煽ってみるか。
「なんでレオンと手なんて繋がなきゃいけないのよ!」
八重子はさらにまくし立てる。
――うわ、こいつ本気で俺のこと嫌いなのか?
いや……俺は? ただの友人だったはずなのに、なんでこんなに気になる?
呪いの影響か……?
矢野の胸中に、答えの出ない疑問が浮かぶ。
「っていうか、突っ込むとこそこなの?」
沙也が呆れたように言う。
「やっぱり……本当の記憶だったんだ」
沙也が笑いながら呟くと、二人の間に沈黙が落ちた。
「気にしないで。私、ああいうの慣れてるし」
沙也は作り笑顔で沈黙を破る。
「そんなことより、二人は何なの? どういうことか説明してくれるんでしょ」
八重子と矢野は視線を交わす。
「沙也……ごめんね。ちゃんと記憶、消せてなかった。嫌なこと思い出させちゃったね」
「あの時は、親友が傷ついてる姿を見て……失敗したんだね。賢者失格だ」
八重子は自嘲気味に言う。
「いや、あれはしょうがない。ハチ……いや、獅子堂さんはしっかりやったよ」
矢野がフォローを入れる。
「本当に大丈夫だから。ちょっと手荒な部分は嫌だなって思うけど……そういうプレイっていうか、そういうの経験あるから」
沙也の爆弾発言に、八重子は「え!? いや!? え!?」と声を裏返す。
「水野さん……そういうことは言っちゃだめだよ」
矢野が苦笑しながら制す。
「私は……誘拐されて、どこかに売られそうになったことが怖かった。だって、八重子たちと離れ離れになるのは嫌だから」
沙也は真剣な表情に戻る。
「それより、本当に二人は何なのか説明してよ。今も“賢者”って言ってたし、部長も八重子のことを“ハチ”って呼んでるよね?」
八重子の頭の中は混乱で渦を巻く。
矢野が静かに口を開いた。
「……話してもいいんじゃないか?」
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