第6話 上位組交流戦の告知――舞台は広がる

 朝の大食堂は湯気の輪で満ち、焼いた黒パンの香りと薄い塩のスープが鼻にやさしく触れた。

 石窓の外は快晴で、魔道ランプは消え、磨かれた長机の表に斜めの陽が帯を落としている。

 匙が陶器に触れる微かな音、カトラリーの擦れ、布靴が床を撫でるざらつき——どれも昨夜の演習の緊張をほどく役目を、きちんと果たしていた。

 「見たか、掲示板。昼前に“交流戦”の出場者、出るってさ」

 エリオがパンの端をスープに浸し、丸盾を立て掛けた椅子の背を手で確かめながら言う。

 「交流戦?」

 「A・B・C組の上位者を混ぜて、上級生と特待編入も交えた公開スパーだと。場所は外庭の円形土俵。観覧可、賭け不可、乱入厳禁」

 「“特待編入”……」

 ローザリアが匙を置き、フォークの歯を布でそっと拭ってから囁く。

 「最近、王都外の推挙状で編入した者がいると聞いたわ。年は私たちと同じか、ひとつ上。武芸の“語彙”が豊富で、舞台でも舞台の外でも崩れない、と」

 (石塀の上。夜の灯の外。赤髪。あの澄んだ視線)

 胸の奥で昨夜の拍が一度だけそっと鳴り、俺は喉護符の結びが表一回で締まっているのを舌で確かめる。

 紙→声→退路→術(最後)。胸の白は細く長く。

 食堂の扉が開き、黒外套が巻紙を抱えて入ってきた。

 静かな波が室内を走り、スプーンが皿に触れる音が一段減る。

 黒外套は台の上に巻紙を広げ、声を届きやすい高さで短く言った。

 「告知。上位組交流戦、本日午後の二刻。会場、東園円形土俵。構成は個人戦四、二対二一、三対三一。術は厚く置かず、“見える所作”を原則とする」

 「選抜基準は?」

 「直近三課題の可視評価、乱流の有無、撤収音の明瞭、術の節制。さらに推薦」

 黒外套は別紙を捲り、名を読み上げる。

 「個人戦候補——エーデルワイス家、ライナー」

 食堂のざわめきが一拍、止まる。

 胸に温度がひとつ灯り、掌の汗がほんの少し冷えた。

 「丸盾・肩替、エリオ。杖・声線、ローザリア。以上三名を基軸に、複数戦も編成する」

 「確認、お願いします」

 俺は立ち、礼を短く置き、黒外套の目をまっすぐ受けた。

 「昨日の“市街想定”で示した規矩を、今日の舞台でも守る。輪は約束、線は見取り図、撤は切音。未使用は未練にしない」

 黒外套の口角がわずかに動いた。

 「よろしい。——なお、特待編入から一名、個人戦の席を用意してある」

 黒外套が食堂の後方へ視線を滑らせた。

 扉の柱の影から、赤髪が歩み出る。

 陽光が髪を銅色に縁取り、灰が混じったような瞳は笑わず、しかし硬くもない。

 長身ではない。むしろ平均より少し低い。だが、腰の切り出しの角度が、舞台の中心線を踏んでいる。

 歩幅は等間。肩は上がらず、胸は張らず、足首だけが静かに効く。

 (あの“立ち”。二章の土俵、俺の胴を斜めに裂いた刃筋。……やはり、君か)

 彼は一歩前に出て、礼を短く置いた。

 「ラース。素性は後ほど。——舞台が嫌いじゃない」

 名が音になった。

 胸の白が、ほんの一瞬だけ細くなり、すぐ戻る。

 黒外套が巻紙の余白に朱で『ラース=特待編入/語彙:抜き・間合短』と書き、次の紙をめくる。

 「組み合わせは——第一仕合、ラース 対 エーデルワイス家・ライナー」

 食堂の空気が、温度を一段下げる。

 エリオが小さく息を吸い、丸盾に触れた指が一瞬だけ強くなる。

 ローザリアは杖の金具を親指で撫で、視線を俺に寄せ、短く頷く。

 (来る。見られるだけの時間は終わり。こちらも見せる)

 黒外套が告知を締める。

 「可視の秩序は舞台でも舞台の外でも通る。礼は短く。乱打なし。術は厚く置かず。以上」

 太鼓が乾いて二度鳴り、黒外套たちは退いた。

 食堂のざわめきが戻り、木椀の触れ合う音、パンを裂く音、笑い声が薄く流れ出す。

 俺は席に戻り、蜂蜜水を一滴だけ喉に落とし、喉護符の結びを舌で確かめた。

 エリオが低い声で言う。

「“抜き”が柱だ。生きた線を使う。盾は壁じゃなく面の角度で飲み込む」

 「私は“声線”を重ねる。線が沈む時は、目印を言葉で置く」

 ローザリアの瞳は静かに熱を帯び、昨夜の灯の輪の反射がまだ底に残っている。

 「俺は“見える”で譜面を奪う。直線は曲線に、速さは遅れに。輪は約束、線は見取り図、撤は切音。厚く置かない」

 胸の白を細く長く保ち、柄の木目を掌に合わせる。

 食堂の隅、掲示板の前に人だかりができ、紙の端が手に触れて小さく音を立てた。

 午後の陽は高く、影は短い。

 舞台は整う。

 俺の中の刃も、音も、輪も、線も、すでに所定の位置にある。

 最後に舌で喉護符を撫で、胸の白へひとつ言葉を縫う——未使用は未練にしない。

 匙を置き、立ち上がる。

 観覧のざわめき、砂の“戻り”、太鼓の乾いた皮


 昼の鐘が二つ鳴り、外庭の円形土俵へ向かう通路は人の熱で軽く波打っていた。

 砂を押し固めた土俵は楕円に近い円で、外周に低い木柵、四方に太鼓台と審判席、上段には諸家の見物席が組まれている。

 東側の天幕には学園の紋、北側には王都警備隊の紋、南側の細長い桟敷には商業ギルドの旗が揺れ、色の差が空の青を強く見せた。

 武具の検分所に入ると、油と蜜蝋の匂い、研いだ木剣の木目、革紐の新しい手触りがいっせいに嗅覚へ押し寄せ、胸の奥の拍が自然と深くなる。

 係官は木尺で刀身の幅を測り、鍔のゆるみを指で確かめ、喉護符の結びが表一回であるかも丁寧に見た。

 「術具の持ち込みは不可、足裏の補助は薄くのみ、視覚を誤魔化す粉類は禁止——繰り返しますが“見える所作”が原則です」

 「了解。厚く置かない、礼は短く、乱打なし」

 指の腹で柄の木目を撫でると、前回の演習で染み込んだ汗の塩が薄く指先に移り、滑り止めの役目を果たすのが分かる。

 エリオは盾の縁を軽く叩いて音の角を確認し、肩の可動域を深呼吸に合わせて回す。

 ローザリアは杖の石突を布で拭き、金具の反射が強すぎないか灯りに傾け、目印に使う木札の紐を指に巻いてほどき、視線だけで「大丈夫」と告げた。

 控え幕をくぐると砂の乾いた匂いが濃くなり、土俵の中央に立つ主審の影が短く、はっきりと地面に落ちているのが見えた。

 観覧席にはエーデルワイス家の家人、商人風の男、冒険者風の一団、そして薔薇の徽章を胸に付けたローゼンタール家の使いが座り、どの視線も静かに刺さる。

 黒外套が巻紙を掲げ、声を届きやすい高さで規則を繰り返す。「個人戦は一本先取。ただし“見える打突”のみ有効。押し倒し、組み討ちは即中断。術は補助に限る」

 太鼓が「ドン」と一打、最初の対戦者が土俵へ招かれ、外周のざわめきが薄く整う。

 ラースは控えの列の二番目、俺は三番目に立ち、互いの横顔が視界の端に触れる距離だった。

 彼は視線を落ち着かせ、足首の角度だけで重心の深さを示し、空気を押さない姿勢で立っている。

 「昼も夜も、余計な音が少ない立ち方だな」エリオが低く呟き、丸盾を肩に回してから俺の手首を一瞬だけ握り、温度を渡す。

 「線が沈む場面は私が言葉で補うわ。あなたは音を、ラースは“抜き”を多用するはずだから、間合いの端を見失わないで」

 ローザリアの声は穏やかで、しかし芯に熱があり、瞳の底には緊張を欺かない光が宿っている。

 胸の白を細く長く保ち、紙→声→退路→術(最後)を背骨に沿わせ、喉護符の結びが指の背に触れる感覚を確かめる。

 先の仕合の判定が出て太鼓が二度、小さく乾いた。砂の“戻り”が軽い「サ」に立ち戻り、俺の番が近いことを足裏が先に理解する。

主審の補助役が控え列に歩み寄り、名を確認する札を手にした。「エーデルワイス家・ライナー、続いて特待編入・ラース。準備を」

 札が読み上げられた瞬間、上段の貴族席の一角で小さなざわめきが起き、ローゼンタールの徽章が微かに揺れ、花の香が風に乗った。

 控え幕の陰で、ラースが横に首を回し、短く息を吐き、わずかに口角を上げる。

 「名を知った。……じゃあ、いよいよ“見せ合い”だ」

 挑発ではない。覚悟の温度だ。

 「舞台でなら、好きなだけ。——責任の範囲で」

 互いに礼を置く前の、短い言葉の交換。言葉は重ねない。重ねれば、足が鈍る。

 ラースは先に土俵へ上がり、足の砂を軽く払い、木剣を水平に上げてから肩へ戻す。

 その所作は無駄がなく、観客の目に「開始位置」を鮮明に残すための見本のようだった。

 俺は木柵を越え、一歩ずつ砂の感触を確かめ、踏み替えで擦過の音が濁らぬことを耳で確認し、中央の白線に立つ。

 太鼓の皮が風でわずかに鳴り、主審が二人の間に視線を落とす。

 「双方構え——礼」

 頭を下げる角度、木剣を落とす高さ、呼吸の深さをできるだけ等間に揃え、観客の視界に“同じ条件”の線を置く。

 主審の手が下がり、「始め」の声が砂の上でよく通る高さで落ちた。

 ラースは動かない。いや、動いている。肋骨の間の空気の出入りだけが少し深く、足裏の砂の噛みが微妙に変わり、視線の焦点が俺の喉元から右肩、そして木剣の腹へと滑った。

 最初の一手で押せば、彼の“抜き”に付き合わされるだけだ。だから、押さない。

 胸の白を保ち、面を浅く、肩から楔を差し入れる準備だけを整え、踏み線の上で半拍わざと遅れる。

 遅れに反応したのは、観客の息だった。入口の木戸の方角から空気が軽く引き込まれ、砂の匂いが強くなり、太鼓の皮が一度だけ勝手に微かな音を立てる。

 ラースの視線が細くなり、右足の指が砂を薄く払う。そこが“抜き”の起点。

 彼の木剣が直線を描く前に、俺は角を丸めて直線を曲線に変える準備だけを仕掛け、同時に足裏の下に半掌ほど薄く硬化を置いて踏み替えの輪郭を自分で確かめる。

 硬化は色を変えず、擦過の音だけを「サ」に澄ませる。罠ではなく、確認の一滴。

 空気が一段冷えて、音が立ち上がる前の静けさが場を満たした。

 「来るぞ、ライナー」エリオの低い声が外周から届き、ローザリアの杖先が柵の影で短く光る。

 俺は柄の木目を掌に合わせ直し、視界の端で主審の顎の角度を測り、耳で砂の“戻り”を撫でる。

 合図はない。あるのは、互いの拍だけだ。

 俺は言葉を胸で一つ縫う——輪は約束、線は見取り図、撤は切音、未使用は未練にしない。

 その瞬間、ラースの腰がわずかに沈み、砂が極小の「チ」と鳴り、世界が一段、速くなった。


 ラースの腰が沈んだ一寸、その沈みがそのまま刃筋の起点になり、木剣の腹が空気を裂くより先に俺の視界の角が傾いた。

 踏み込みは短く、砂がほとんど跳ねない。

 抜きの直線が喉へ伸びる前に、俺は面を浅く立て、肩から楔を差し入れて直線を曲線へ変える準備だけを置く。

 押さない、受けない、丸める。

 木剣同士が触れたか触れないかのところで「コ」と短く乾いた音が生まれ、俺の受けは角を半分寝かせた壁になり、刃はわずかに胸の外へ滑った。

 ラースの目が細く笑い、すぐさま間合いを詰め直す。

 彼の足首が砂を払う「チ」、次の「チ」までの間が均一で、踏みの等間が怖いほど揃っている。

 (速さを、遅れに変える)

 俺は踏み線の上で半拍だけ遅らせ、遅れの端で木剣の腹を彼の柄へ撫で付ける。

 「コッ」

 芯を削る高さで短く一音、視覚の直線に別の拍を差し込む。

 観覧席が息を飲み、審判の顎が半分だけ動き、主審の掌がわずかに開いて継続を示した。

 ラースは退かない。逆にさらに短く寄る。

 胴を斜めに、刃筋を地面と浅く交差させて、俺の肘を狙う“抜き落とし”。

 俺は肘を先に落とすのではなく、肩の楔で彼の刃筋を胸の外へ丸め、空いた縁に木剣の腹を入れて「コッ」。

 接点は一寸、音は短く高い。

 砂の“戻り”は軽い「サ」に保たれ、濁りが立たない。

 上段で赤薔薇の徽章がわずかに揺れ、ローザリアの杖先が柵の影で二度だけ光を返す。

 「直線、曲がった」エリオの低い声が外周から届き、俺は頷かずに足裏で返事をする。

 ラースの眉間にかすかな影。

 次は間合いの端を狙ってきた。

 踏み切らず、腰だけを薄く押し、上体は据えたまま刃だけ消えるように出す。

 (間の盗み——これが柱)

 俺は足裏に半掌ほど薄い硬化を一滴だけ置いて踏み替えの輪郭を澄ませ、自分の重心が沈みすぎないことを確認しつつ、木剣の面で刃の根元を撫で、「コッ」。

 彼の刃が生まれたばかりの直線は、そこで輪郭を失う。

 観客の拍がわずかに揺れ、主審の視線が俺の足許と手元の等間を往復した。

 ラースは一歩退き、鼻から短く吐いた。

 退きも等間、無駄がない。

 「見えるのは、嫌いじゃない」

 彼はそう言って、今度は逆手に柄を返し、喉下へまっすぐな突き。

 突きの直線は、曲げにくい。

 俺は押さず、受けず、ずらす。

 喉護符の外を刃一枚で通る高さに面を斜に立て、肩の楔で角を丸め、同時に撤収音を一拍だけ自分で置く。

 「コッ」

 凍りの端で、彼の突きは空を掴み、俺は半身を斜抜けに滑らせる。

 砂が「サ」と鳴り、汗の塩が唇に薄く載る。

 ラースの口角が上がった。

 「じゃあ、これで」

 彼は刃を消す。

 視界から木剣が消えたと錯覚するほど、肩の回転と腰の切り出しが静かで、音が生まれない。

 (音がないなら、匂いと温度)

 昨夜の講評が背骨で光る。

 俺は風の層の変化を胸で拾い、刃の通り道の冷えを探す。

 右からではない、左からではない、下からだ。

 小さな風の引きを足首が感じ取った瞬間、俺は膝を半寸抜いて刃の直進を空へ送り、木剣の腹で柄へ「コッ」。

 ラースの肘が一瞬止まる。

 止まった肘は、止められたという事実だけを残す。

 主審の手がわずかに上がり、審判席の旗が揺れかけて戻る。

 有効打ではない。見せが足りない。

 (なら、見せる)

 俺は自分の面を軽く叩き、三拍の譜面を整える。

 「コッ——コッ——コッ」

 第一で切断、第二で路替え、第三で止め。

 音の等間が土俵に線を描き、観客の目に所作の骨が通る。

 ラースの瞳孔がわずかに開き、次の手が早くなる。

 速いほど、美しいほど、音は鈍りやすい。

 彼の斜め抜きが肩越しに滑る直前、俺は角をさらに丸め、肩の楔で路を横に逃がし、空いた縁に「コッ」。

 刃は空を切り、砂の“戻り”は「サ」を保つ。

 観覧席の上段、ローゼンタール家の使いが肘掛を指で二度軽く叩き、黒外套の一人が巻紙の余白に朱で『曲線化=明瞭』と走らせた。

 息が熱い。

 掌の汗が柄の木目に馴染み、滑りはない。

 ラースは呼吸を変えた。

 浅く短かった流れを、一度だけ深く。

 その深さが合図になった。

 彼は踏まずに寄る。

 砂が鳴らない。足首だけが滑る。

 (間の盗み、二度目)

 俺は遅れをさらに細く、半拍の端だけ残して身を沈め、木剣の腹で彼の柄頭を撫で、同時に肩の楔を切っ先の外へ差し入れる。

 「コッ」

 音が立つ。

 観客の拍が揃う。

 主審の手が半ば上がる。

 ラースの刃先が揺れ、彼自身がそれを笑って受け止めた。

 「見える。——だから続けられる」

 言葉は短く、呼吸は整っている。

 俺は頷かず、胸の白をさらに細く、長く。

 舌で喉護符の結びを一度だけ確かめ、視界の端でローザリアの杖先が一閃、エリオの盾縁が一度だけ沈むのを捉える。

 支えは、ある。

 次で、譜面を奪う。

 直線は曲線に、速さは遅れに。

 輪は約束、線は見取り図、撤は切音。

 俺は足裏で砂の“戻り”を撫で、柄の木目を握り直し、次の一手を胸の内で一行に縫い込んだ。


 次で譜面を奪うと胸で結んだ瞬間、ラースはわずかに顎を引き、呼吸の底をさらに下げた。

 刃の腹が陽を細く返し、肩は上がらないのに速度だけが増える。

 最初の一手は見せに過ぎない——そう言わんばかりに、彼は空気を切る。

 砂は鳴らず、肋骨の幅だけ風が細る。

 (空打ちで耳を殺し、本手で目を奪う)

 直後、柄が半寸沈んで刃が下から立つ。

 喉下へ突き……ではない。喉下に線を描いて、肘へ折る“抜き折り”。

 俺は喉護符の外を刃一枚で通す浅面を先に置き、同時に肩の楔を肘の外へ差し、直線を曲線に変える準備だけを置く。

 「コッ」

 腹で柄を撫でる高さで一音、視覚の直線が一拍たわむ。

 ラースはすぐさま、肩を逆へ返す。

 今度は腰からの斜抜き。

 踏みの等間は狂わないのに、刃筋の位相だけをずらしてくる。

 (速さを遅れに、直線を曲線に)

 俺は半拍遅らせ、遅れの端に上腕の一滴を置いて「コッ」。

 同拍で撤収音を一音だけ自分で鳴らし、凍りの端で半身を斜抜けに滑らせる。

 砂の“戻り”はサ、濁りなし。

 観覧席の上段で、主審補助の旗が半ば上がって戻る。

 有効打の寸前。見せがあと一押し足りない。

 ラースの瞳孔が微かに締まり、次は間を盗むのではなく、間そのものを作り替える。

 足首が砂を払う「チ」が不等間に崩れ——崩した次の拍が、怖いほど揃う。

 (狂わせて、揃える。音で追うな。温度で取れ)

 夜の講評が背骨で灯る。

 俺は風の層の冷えを胸で拾い、刃が通る路を嗅覚で先になぞる。

 脂が薄れ、鉄が増え、汗が乾く。右上から左下に冷えの筋。

 肩の楔を一寸だけ先行させ、刃の根元を木剣の腹で撫でる。

 「コッ」

 柄の芯が一瞬だけ止まり、ラースの肘が半拍遅れる。

 そこで——見せる。

 俺は自分の面を軽く叩き、三連の譜面を等間に置く。

 「コッ——コッ——コッ」

 第一で切断、第二で路替え、第三で止め。

 土俵に線が走り、観客の視界に骨が立つ。

 ラースの喉がかすかに上下し、笑いを飲む気配。

 「じゃあ、これも見せる」

 彼は逆手へ滑らせ、柄を短く握り直し、間合いの外から届く角度で喉下へ突きの軌道を引く。

 喉護符が鳴る高さだ。

 (受けない。ずらす)

 俺は喉護符の外縁に面を斜に立て、押さずに道を横へ逃がし、同時に足裏の半掌だけ薄く硬化して踏み替えの輪郭を澄ませる。

 硬化は色を変えず、擦過の音をサにするだけ。罠ではない。

 凍りの端で半身を斜抜けに引き、空いた縁に上腕の一滴。

 「コッ」

 観覧席の息が揃う。

 審判席の旗が揺れかけて戻る。

 まだ足りない。

 (なら、輪で踏ませる)

 土俵の白線ぎりぎり、俺は足の縁で細い輪を一つ、自分だけに分かる深さで刻み、自分でそこへ踏み越える。

 輪は沈み、沈んでも抜ける。約束の所作を相手に渡す。

 ラースの視線が輪の沈みを捉え、ほんの半拍だけ遅れる。

 その遅れに、俺は肩の楔を差し込み、刃筋を曲線へ丸め、木剣の腹を柄へ撫で、「コッ」。

 主審の顎が上がる。

 上段の黒外套が巻紙の余白に朱で『輪=約束、対手にも通る』と走らせ、太鼓台で皮が一度だけ乾いて鳴る。

 ラースの呼吸が浅く短く戻り、額に薄い汗が出る。

 彼は退かない。むしろ踏み込む。

 刃は肩越しの斜め抜き、しかし軌道の途中で消える。

 (視覚殺し。音も殺す。なら——匂いだ)

 脂が消え、革が立ち、鉄が濃い。

 匂いの濃い方から薄い方へ路は抜ける。

 俺は半身を濃から薄へ斜抜け、刃の生まれる根を腹で撫で、「コッ」。

 音が立つ。

 主審の手が半ば上がり、観客の拍が一段整う。

 ラースの瞳が細く笑う。

 「見える。……だから、まだ早い」

 言い終えるより先に、彼は最短を打ち込んできた。

 腰の切り出しが零に近く、踏みの等間が消え、静止と運動の境界が見えなくなる“零拍”。

 (来る——ここが核)

 俺は胸の白をさらに細く、紙→声→退路→術(最後)を背骨に刻み直し、喉護符の返しが表一回であるのを舌で確かめる。

 受けない。押さない。先に丸める。

 彼の刃が直線を始めるその前、肩の楔を先行させて直線の角を丸に変え、空いた縁に一滴。

 「コッ」

 等間が戻る。

 俺は同拍で自分の面を軽く叩き「コッ」、撤収音を二音目に置き、三音目の「コッ」で上腕を締める。

 三連が土俵に線を残し、観客の目に譜面が通る。

 審判席の旗が高く上がりかけ——

 まだ主審の掌は落ちない。

 「——続行」

 声は短く澄み、太鼓の皮が一打返す。

 (最後の一手は、見せで決める)

 柄の木目が掌に吸い、指の汗が乾く。

 視界の端でローザリアの杖先が一閃、エリオの盾縁が低く沈む。

 支えはある。

 礼は短く。未使用は未練にしない。

 俺は足裏で砂の“戻り”を撫で、胸の白に一行縫う——直線は曲線に、速さは遅れに、そして“見える”で断つ。

 ラースがわずかに顎を引き、腰が半寸沈む。

 次で、決める。


 合図は鳴らない。鳴るべきは、互いの拍だけだ。俺は胸の白をさらに細く、紙→声→退路→術(最後)を背骨に縫い直し、喉護符の結びが表一回で締まっているのを舌で確かめた。

 ラースの瞳がわずかに絞られ、砂の匂いが濃くなった。肋骨のあいだにたまっていた空気が一気に薄くなり、耳の奥で鼓動が等間に打つ。

 彼は真正面からは来ない。来るのは“零拍”。等間を捨て、静止と運動の境界だけで刃を立てる、あのやり口だ。

 速さに速さで付き合えば、見えるが崩れる。だから俺は、遅れで迎える。

 半拍、呼吸をあえて遅らせ、その遅れの端だけを刃の“拠り所”に変える。遅れは弱さではない、譜面の隙間だ。

 ラースの腰が半寸沈み、刃の腹が陽をわずかに返す瞬間、俺は足裏に半掌ほど薄い硬化を一滴、色を変えぬまま置き、踏み替えの輪郭を自分で澄ませた。

 硬化は罠ではない。擦過の音を「サ」に整えるだけの一滴だ。

 次いで、肩の楔を彼の直線の“角”に先行させる。押さず、受けず、直線を丸へ。

 木剣の腹が柄の根元を撫でた刹那、「コッ」と短い高さの音が立ち、彼の刃が一寸だけ遅れる。その遅れは、観客の目にも耳にも届く可視の遅れだ。

 主審の掌が半ば浮き、審判席の旗が揺れかけて戻る。まだだ、見せが足りない。

 俺は自分の面を軽く叩き、「コッ——コッ——コッ」。三つの等間で土俵に譜面を刻み、第一で切断、第二で路替え、第三で止めを置く。

 観覧席の呼吸が揃い、砂の“戻り”が一段澄む。音が骨になり、骨が線になって、線が観客の網膜に残る。

 ラースは笑わない。笑わずに、深く構え直す。柄を半寸詰め、間合いの外から届く角度を作る——喉下への真っ直ぐな突き。

 喉護符が鳴る高さだ。受けない。押さない。ずらす。

 喉護符の外縁に面を斜に立て、肩の楔で角を丸め、俺は斜抜けに身を滑らせる。同拍で上腕に一滴「コッ」。

 刃は空を掴み、砂の“戻り”は濁らない。

 ラースの足首が砂を払う「チ」を二度、三度。等間は怖いほど揃い、今度は下から刃が立つ。肘を折る“抜き折り”。

 肘を先に引かず、肩の楔で路を横に逃がす。俺は自分の足の縁で土俵に細い輪を一つ刻み、自分でそこへ踏み越えた。

 輪は沈み、沈んでも抜ける。約束の所作を、相手にも、審判にも渡す。

 ラースの視線が輪の沈みを捉えた半拍、その半拍に俺は木剣の腹で柄を撫で、「コッ」。

 審判席の旗が高く揺れかけ——まだ主審の掌は落ちない。「続行」。

 決め切るには、明確な見せが必要だ。ならば、直線をもう一段、丸へ変える。

 俺は胸の白をさらに細く、呼吸を三、五、七で整える。背骨に縫い付けた紙→声→退路→術(最後)をもう一度なぞり、喉護符の結びを舌で確かめた。

 そして——こちらから踏む。押しではない、踏み描きだ。

 土俵の白線の内側、ラースの前足が触れうる距離に、靴底の縁で極細の輪をもう一つ、等間で刻む。間髪入れず踏み越える。

 輪と輪の間に、自分の木剣で見えない線を描き、その線上を等間三歩で渡る。「コッ——コッ——コッ」。

 音が路を描く。

 ラースの等間が、一瞬だけ俺の等間に絡む。絡んだ瞬間は、直線が最も曲がりやすい。

 彼は負けない。負けないからこそ、真っ直ぐを選ぶ。今度こそ喉下へ一直線。

 来る。俺は喉護符の外を刃一枚で通す浅面を先に置き、肩の楔を切っ先の外へ先行させ、直線を曲線へ丸める。

 同時に、足裏の硬化をほんの一滴だけ増す。色は変えない。擦過の音だけを「サ」へ整える。罠ではない、見せの補助だ。

 凍りの端で半身を斜抜け、空いた縁に打突の一滴。今までよりわずかに深く、わずかに高く。

 「——コッ!」

 短く高い音が砂の上で澄み渡り、木剣の腹がラースの胸元に可視で触れる。

 主審の掌が勢いよく落ち、審判席の旗が高く上がり、太鼓が乾いて二打、すぐ一打。

 一本。

 土俵の熱が一段引き、観覧席のざわめきが薄く広がる。熱狂ではない、納得の拍だ。

 ラースは一歩退き、柄を下げ、礼を短く置く。口角がわずかに上がる。

 「見えた。……だから、面白い」

 「舞台なら、何度でも」

 俺も礼を置き、喉護符の結びを舌で一度撫で、胸の白を細く長くしたまま、土俵の縁へ下がる。

 黒外套が巻紙を掲げ、短く読み上げる。「判定、有効打突一、ライナー。見せの明瞭、三連の等間、輪の約束——良」

 上段のローゼンタールの使いが肘掛を指で二度叩き、薔薇の徽章が静かに揺れる。貴族席の一角で小さな頷きが連なり、商業ギルドの桟敷では帳面に素早い文字が走った。

外周の柵の影で、エリオが丸盾の縁を一度だけ鳴らし、目で「取ったな」と告げる。

 ローザリアは杖の金具をそっと指で撫で、「音が、綺麗だった」と目で囁く。

 俺は顎で応え、蜂蜜水を一滴だけ喉に落とす。甘さは短く、熱を滑らかに洗う。

 ラースは主審に所作を確認し、自分の踏みの等間を足裏で一度確かめると、こちらを見て言った。

 「“見せ合い”を続ける。——次は、舞台の外でも」

 挑発ではない、約束の温度だ。

 黒外套が次の仕合の名を読み上げ、太鼓が乾いて一打、砂の“戻り”が新しい譜面へと切り替わる。

 俺は控えへ戻りながら、図譜の余白に今日の三行を縫った。『直線は曲線に、速さは遅れに、音で骨を立てろ』『輪は約束、線は見取り図、撤は切音』『未使用は未練にしない——礼は短く』。

 巻を閉じると、昼の陽が刃の腹に細く返り、汗が塩の薄い膜になって肌に残った。

 一本は取った。だが、これは序。

 舞台は広がる。

 学園の外庭から王都、王都から辺境へ——見える所作はどこででも通る。通す。

 胸の白を細く長く保ったまま、俺は太鼓の皮の乾いた気配を背に、次の出番に備えて木剣を握り直した。

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転生剣士ライナー 〜武と魔を極めて異世界最強へ〜 @u7046

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